俺たちのガンプラ30年史 [後編]

「夢は歩かせること」ニュータイプ設計者の飽くなき「リアル化」の追求
FORZA STYLE

 プロジェクトが立ち上がった当時、流行していた格闘ゲームを意識し、40種ものガンダムが互いに戦うという別次元の子供向けのガンダムアニメがヒットしていた。バンダイは、低年齢層を対象にアニメの関連グッズを販売して成果を上げたが、社内では「これを弾みにガンプラ人気を再興させよう」という気運が高まっていた。開発プロジェクトにリーダーとして携わったバンダイ・ホビー事業部の川口克己(48)は、こう振り返った。

リアル路線の礎を築いた川口克己氏。「ガンプラを退化させたらファンへの裏切り。リアルの追求に終わりはない」と語る

「このプロジェクトの方針は、ガンプラが世に生まれてから(開発プロジェクト立ち上げまでの)約15年間、『ガンプラ大好き』と言ってくれているファンを徹底的にケアしようというものでした。

 そこで出した結論が、『よりリアルなガンプラを』というキーワードだったのです」

 前述した"議論"はリアルさの追求の一助となったであろう。そして、リアルさへのこだわりは、川口のプロフィールと無関係ではなさそうだ。学生時代の川口は、模型専門誌で「ガンプラ名人」と紹介されるほどの存在だったのだ。

ガンプラ名人たちが集結

 何と、川口が最初に作ったガンプラはバンダイから発売された"出来合い"のものではない。プラモ仲間とガンダムのキャラクターを駒にしたシミュレーションゲームを作ろうと、タミヤ(旧・田宮模型)の兵器人形をベースに改造してガンダムやザクを作り上げたのだ。

 それが元で、浪人生活を送っていた川口に思わぬ依頼が舞い込む。"ガンダム駒"の出来映えを高く評価した模型専門誌『ホビージャパン』の編集者から「バンダイからガンダムのプラモデルが発売される前に特集を組むので、フルスクラッチ(完全自作)でガンダムのプラモデルを作ってほしい」とのオファーを受けたのだ。'80年の春のことだった。

 『ホビージャパン』の'80年8月号に掲載された川口の作品は、読者から大きな称賛を浴びた。大学に進学して仲間と「ストリームベース」というモデラーグループを作った川口は、次々とガンダムを題材にしたジオラマを制作した。その活動は専門誌のみならず、『コミックボンボン』に連載された人気マンガ『プラモ狂四郎』にも登場したほどで、川口のモデラーとしての地位は確立されていった。

 バンダイの見本市用の試作モデルも作っていた川口は、社員に誘われて、'84(昭和59)年にバンダイに就職した。その頃から「リアルなガンプラを作りたい」が夢だった川口をリーダーに据えた人選は、'94年スタートのプロジェクトにとって、まさに打ってつけであった。

 付け加えるが、バンダイもファミコンブームの波に圧されっぱなしだったわけではない。プラモが受けなくなった理由の一つに、「作る手間」が厭われたことがある。そこで'85(昭和60)年、世界で初めて4色の多色成形機を開発し、ランナー(プラモのパーツをつなげた枠)を最大4色に塗り分けた状態で販売できるようにして、塗装の必要をなくした。

 さらに'88(昭和63)年には、接着剤なしで組み立てられる「スナップ・フィット方式」を導入。接着剤に使われるシンナーが中毒を引き起こすことも、この進化の背景にある。

 技術の進歩で、プラモデルに馴染みのない人や苦手意識を持っている人にもガンプラが浸透したことは確かだ。だが、作り方の簡略化で「15年来のファン」の満足が得られないのも明らかだった。川口が掲げた「よりリアルに」という命題は、「よりマニアックに」とも受け取れる。

 川口らの取り組みは、小中学生を中心に大多数を巻き込む遊びのハードが家庭用テレビゲームに取って代わられた以上、大多数ではなくとも、'80年代にガンプラに熱中した少年たちの心を、15年、20年と歳月を経ても確実に捉える、マーケティング上の戦略だったと言える。