乃木希典 vol.4

ドイツ留学で放蕩から一変。香川での第十一師団長時代

vol.3 「軍旗を失った西南戦争。 以後、乃木は死に場所を求める」はこちらをご覧ください。

 明治十一年十月、乃木は薩摩藩藩医湯地定之の娘シチと結婚した。

 西南戦争後、歩兵第一連隊連隊長に任命された乃木は、伝説的な放蕩生活を送っていた。当時の日記をみると、とにかく毎日、呑んでいる。料亭と芸妓の名前ばかりが並んでいる。

 父希次が既に亡くなっていたため、母寿子の心労は、ひとかたならぬものがあった。

旧第十一師団香川・善通寺の旧司令部。初代師団長の乃木の名前から「乃木館」とも呼ばれる

 所帯を持たせれば、落ち着くのではないか。

 ごくごく常識的な発想から、母は結婚を勧めた。

 乃木の反応は、異様なものだった。

「薩摩の娘なら、貰ってもよいです」

 どうして、このように突飛な事を、乃木が云いだしたのか、その背景はよく解らない。

 云うまでもなく、薩摩人は、乃木が西南戦争で戦った相手であり、また、生涯に及ぶ恥辱を与えた相手であった。

 さらに、明治政府の内部においても、西南の戦役で、かなり勢力が削がれたとはいえ、やはり長州閥にとって、最大のライバルである事は変わりなかった。

 しかも、母の世代にとっては、禁門の変など薩摩によって煮え湯を飲まされたという思いは牢乎としてあったろう。

 再三、問うたが息子は、理由を云わない。

 仕方なく、伝手をたどって、薩摩から嫁をとる事にした。

 乃木の副官である伊瀬知好成の遠縁にあたる、湯地家の娘、シチに白羽の矢がたった。

 古風な藩医の家系だった湯地家は、秩禄処分後、衰微を余儀なくされたが、嗣子定基は北海道開拓使に勤務し、三男の定監も海軍兵学校をへて海軍将校になり、ようやく家運が盛り返してきた時期にあたっていた。後の話だが、定基も定監も、貴族院議員になっている。

 長州閥の中枢にいる乃木家との婚礼は、湯地家にとっては願ってもないものと映ったであろう。新郎の放埒については識っていただろうが、当時の常識からすれば、独身の将校が多少の羽目を外すのは、ごく普通の事だったのである。

波瀾含みだった乃木の結婚生活

 結婚生活は、はじめから波瀾含みであった。

 婚礼の晩、乃木は呑み歩いて、深夜まで帰宅せず、ようやく席についた時には、支えて貰わないと坐っていられないほどだった。

 こうしてシチの結婚生活ははじまった。

 姑の命により、名前を静子と改めさせられた。

 苦労を重ねた姑の目は厳しく、兄たちに可愛がられながら育った静子にとっては、辛いばかりの日々だった。

 相変わらず、主人は遊び歩いている。

 結婚して八年目、乃木はドイツに留学した。

 帰国後、乃木は生活態度を著しく変えた。

 遊び人のような服装をしなくなった。

 いつも特別仕立ての軍服を着ていた。

 料亭に出入りしなくなった。

 地方に出張すると、布団には寝ず、畳に薄手の布を敷いて、その上で眠った。

 食事は、ごくごく質素になった。

 日清戦争に参加し、凱旋してからは、現在に至る、乃木希典のイメージにピッタリと合う、乃木が完成した。

 日清戦争の後、日本の領土となった台湾に乃木は総督として赴いた。同道した母は、台湾で死んだ。治績は上がらなかった。乃木は更迭された。後任は児玉源太郎だった。児玉は後藤新平を起用して、腕を振るわせ、台湾統治の基礎を盤石たらしめた。児玉が乃木の尻ぬぐいをするのは、この時だけではない。

 帰国後、九ヵ月ばかり休職処分とされた後、善通寺の第十一師団の師団長として赴任した。

 静子は、一度、善通寺の乃木を訪ねた。正確に云えば、訪ねようと試みた。

 長男の勝典が、外国語の成績が不振をきわめ、士官学校で落第しそうだった。

 静子は、何度も夫に手紙を出したが、なしの礫だった。

 思い余って、善通寺まで来てしまった。

 師団近くの宿から、使を送ったが、乃木の言葉は、「帰れ」だった。

   ∴

 平成十六年の夏、旧十一師団(現陸上自衛隊第十四旅団)の司令部を訪ねたことがある。

 ちょうど讃岐うどんがブームになりかけていた頃で、家族でうどん屋を巡っている途中、立ち寄ったのだ。旧師団の本部は乃木館として保存されていて、乃木の使用していた椅子、机も展示されていた。「マレーの虎」山下奉文の軍服もあった。

 訝しく思って、山下が高知の出身である事を思いだした。山下は、シンガポール陥落に際して、敵将パーシバルに「イエスかノーか」と問うて降伏を迫った事で有名だが、本人としては、乃木がステッセルを遇したように、丁重に振る舞うつもりだったという。

 旅順戦記の傑作『肉弾』を執筆した、軍人作家、櫻井忠温は、士官候補生時代を第十一師団、乃木の膝下で過ごした。候補生時代は、旧軍の士官人生のなかで、一番辛いらしいが、櫻井は乃木の人柄に救われた、と記している。

「師団長-陸軍中将ともある乃木さんが、若い士官となれなれしく話をするのを見て、私等候補生の乃木さんに対する考へはすつかり変はつてしまつた。/やがて、乃木さんは、ビール瓶を高く上げ、大きな声で『中少尉、一列側面縦隊に集まれ!』と号令をかけた(中略)乃木さんは一同が集まつたと見ると/『前へ進め!』/と、号令した。

 そして自身先頭に立つて、ビール瓶を高く掲げ、板間を踏み鳴らしながら、軍歌を歌ひ出した(中略)乃木さんに続いた士官達は馬のやうな足どりをしながら、乃木さんの音頭につれて割れるやうな声で歌つた。/板間も抜けさうに。硝子窓も毀れさうに。/何だか、私等は、膠で固まった軀が、一時に溶けたやうに、のびのびした気分になつた。

 /乃木さんは、ビールを喇叭のみにしては軍歌を歌ひ歌ひ歩いた。/ときどき『もつと活発に!』などといふので、士官達はもう活発の余地のないくらいに騒ぐ」(『将軍乃木』)。

 軍旗祭の情景から、乃木の面目が伝わってくる。

 乃木は、明治三十四年五月に、第十一師団長を退いた。師団から、義和団征伐に参加した将校が、清国の宝物庫から銀の延棒を掠奪した責任をとったのである。
 

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