戦争を経て老文士によぎる、「贋作」作りへの強い警戒心
永井荷風Vol.9

vol.8はこちらをご覧ください。

 昭和十六年十二月二十日、大東亜戦争がはじまって約二週間後、永井荷風は、ほぼ六年にわたって親しく交際していた、平井呈一と絶交した。

 明治三十五年、平塚に生まれた平井呈一は、早稲田大学文学部中退後、河東碧梧桐の下で俳諧を学んだ後、佐藤春夫の門を叩き、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)や、アーサー・マッケン、ヴァン・ダイン等、海外の伝奇小説、推理小説の紹介者、翻訳者として足跡を残している。

 その功績は評価されるべきものだが、一旦、文学史に目を移すと、その経歴ははなはだしい不面目の様相を帯びる。

 平井の名前が『断腸亭日乗』にはじめて登場するのは、昭和十年三月十二日である。「晴。午後平井氏来訪」。ついで四月二十一日、「佐藤慵斎平井程一の二氏来訪此日日曜日也」とある。さらに五月二十日には「日本橋研究会編輯者平井氏雑誌日本橋第一号を贈らる」、という具合にその交わりは濃度を増していくのだが、昭和十六年十二月に至って突然、交際が断絶される。

「夜平井程一氏来訪。過日余が方より手紙を其居房州布良に出せしところ返書なき故其親戚なる上野の菓子商うさぎ屋方へ電話にて問合せしことありき。然るに同氏はいつの頃よりか本所石原町辺に僦居する由。但し番地は明言せず。奇怪千万と謂ふべし。この頃坊間の古本屋に余が草稿浄写本短冊色紙また書画の偽物折ゝ発見せらるゝ由なれど、右は大抵この平井とその友人猪場毅二人の為すところ、実に嫌悪すべき人物なり。

 平井は去年中岩波書店及び中央公論社にて余が全集刊行の相談ありし時余が著作物の整理及全集編纂を依頼したるを以て相応の利益をも得たるに係らず窃に偽書偽筆本をつくりて不正の利を貪りつゝあるなり。今日までに余の探知するもの××四畳半襖の下張、短篇小説紫陽花、日かげの花、濹東綺譚其他なり。これ等は皆余が自筆の草稿の如くに見せかけ幾種類もつくり置き、好事家へ高く売りつけるなり」

 と、記していた。

翻訳家として生き延びた底力

 昭和二十年三月八日、荷風は平井及び、その友人猪場毅との交誼から絶交に至る経緯を描いた小説『来訪者』の原稿を筑摩書房の古田晁に渡している。実に東京大空襲の二日前であった。

 『来訪者』において平井は「白井」、猪場は「木場」という名で登場する。

「團々珍聞や有喜世新聞の綴込を持つて来てくれたのは下谷生れの木場で、ハーデーのテス、モーヂヱーのトリルビーなどを捜して来てくれたのは箱崎で成長した白井である。二人はわたくしと対談の際、わたくしを呼ぶに必先生の敬語を以てするので、懇意になるに従つて、どうやら先輩と門生といふやうな間柄になつて来たが、然し二人が日常の生活については、其住所を知るの外、わたくしの方からは一度も尋ねに行つたことがないので、余程後になるまで、妻子の有る無しも知らずにゐた。/木場は或日蜀山人の狂歌で、画賛や書幅等に見られるものゝ中、其集には却て収載せられてゐないものが鮮くないので、これを編輯したいと言ひ、白井は三代目種彦になつた高畠転々堂主人の伝をつくりたいと言つて、わたくしを驚喜させた。わたくしは老の迫るにつれて、考証の文学に従ふ気魄に乏しく、後進の俊才に待つこと日に日に切なるを覚えて止まなかつたので、曾て蒐集した資料の中役に立つものがあつたら喜んで提供しやうと言つた」

 荷風の書きぶりからすると、孤影濃くなるばかりの日々に、自らと志を同じくする文学青年と出会った老文士の、無邪気なまでの昂ぶりが、結果として贋作の頒布により裏切られる、というストーリーになるのだが、それが実際にあった事とどの程度、合致しているかは、なかなかに解き難い事であろう。

うさぎや 文学青年だった平井呈一の実家は、東京・台東区の上野で和菓子店を営んでいた

 ただ、いずれにしろこの一件が、荷風の生来の人嫌いと老年が避ける事の難しい過度の警戒心を昂進させてしまった事は間違いないだろう。

 『志賀島』で第七十四回芥川賞を受賞した、岡松和夫氏の夫人は、平井呈一の姪である。縁戚にあたる訳であるから、氏自身も、平井と数度会っている。

 文豪永井荷風から筆誅を被った事は、当然、平井にとって辛い事だったろうが、それでも翻訳家として生き延びた―それはすくなからぬ編集者から評価され、頼りにされたという事にほかならない―のだから、しぶとい底力を育んでいたであろう事は、想像に難くない。

 岡松氏は、『断弦』(平成五年、文藝春秋)で、平井の側から一件を描いている。

 以下文中「貞吉」は平井、「荷葉」は荷風をモデルとしている。

「十月の半ば近い日、貞吉が訪ねてゆくと、荷葉は薄笑いをみせながらも自分の偽筆が近頃出回っているらしいと話した。/荷葉はもっぱら荷葉宅に出入りする出版社の嘱託社員を疑っていたが、貞吉が『色紙や短冊以外にどんなものが』と問うと、『「紫陽花」の原稿というのだがね。それが、よくできているらしい。そっくりの字らしいよ』などと話した。/『それは、きっとわたくしのものです』/貞吉は言葉をすらすらと口にできたのが嬉しかったほどだ。貞吉は色紙や短冊のことも話した。/荷葉は驚いたようだった。/貞吉はさすがに頭を下げて荷葉の言葉を待った。荷葉が家から出て行くように言えば、すぐ立ち上るつもりだった。金に困ってなどと言訳がましいことは口にしたくなかった。/『白井さん、日本橋で食事して、一緒に浅草に行ってみましょうや』/荷葉は何も聞かなかったように、そう言って客間の椅子から立ち上った」

 この時点で荷風は、かつて江戸の戯作者たちが行った半ば洒落としての贋作作りを許容して咎めなかった。けれど、時世の変転とともに強い警戒心が頭を擡げてきたのではないか、と岡松氏は推測している。日米開戦後、「荷葉」を慕う旅館経営者が「白井」を訪ねてくる。

「『私は電話で話しただけですが、荷葉さんは変りかけていますよ。私生活でも今迄のような放蕩はもう危いと思っているようです。(中略)荷葉さんは白井さんの文学的な才能を認めていた。生活に困った白井さんが偽作を作っても、それを面白がるようなところがありました。しかし、その偽作のなかには四畳半襖の下張のような危険な艶本もある。あれを読んだ人は皆写していますよ。もし警察があれを調べ出したら、どうなりますか。こんな時代になって、白井さんは荷葉さんにとって疫病神のようになりかけているんです』」

週刊現代2011年7月30日号より

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