vol.2 「乃木のルーツを訪ねて山口へ。 松下村塾と奇兵隊の実像」はこちらをご覧ください。
乃木が玉木文之進の元に走った頃、長州藩は政治的沸騰の頂点に達しつつあった。
薩摩と会津の画策により、京都を追われた長州藩は、大挙して御所をめがけて攻め込んだのであった。いわゆる蛤御門の変である。
しかし、玉木と乃木の生活は、平穏であった。
昼は耕し、夜は本を読む。
乃木が風雲にさらされるのは、第二次長州征伐においてだった。
長府藩から報国隊に入るよう命じられたのである。
玉木の下で、山鹿流の兵法と砲術を学んだ事が評価されたのだろう。
報国隊は、山縣狂介(有朋)率いる奇兵隊とともに関門海峡を渡り、高杉晋作の下、小倉城攻略に従事した。
ここで、乃木は、松陰人脈の中枢に見えた。
その絆は、藩の名流のそれよりも、よほど強く、有効なものであった。
「松陰先生の弟弟子か……」
はじめての実戦を戦い抜き、負傷も体験した。
出世は約束されたも同然であった。
戊辰戦争には参加しなかった(報国隊の主力は、長岡で壊滅的損害を受けている)。
明治二年、京都に赴き、御親兵兵営でフランス式操兵を学んでいる。
健康を崩し、一時帰郷した。
明治四年、廃藩置県が一段落してから、東京に呼ばれた。
三月ほど待たされたのち、黒田清隆から招かれた。黒田は、野戦司令官として戊辰戦争で最も活躍した軍人であった。
二、三、どうでもいい質問をされた後、帰された。
翌日、陸軍少佐に任ずるという辞令が来た。
乱世とはいえ、二十三歳で少佐とは乱暴だ。後に日露戦争の第一軍司令官を務めた黒木為?も、この時に任官したが、二十八歳で大尉にすぎなかった。
乃木の厚遇ぶりが偲ばれる。
しかし、当人は青年らしく、自分の地位を楽しんだ。
部下を引き連れての放蕩三昧。罪のないいたずら —料亭で、ぜんざいを百杯頼む—。
しかし、その輝きは永くは続かなかった。
明治八年十二月、熊本鎮台の歩兵連隊長心得に任じられたのである。すでに、九州での士族叛乱は、時間の問題とされていた。
連隊長の山田穎太郎は、後に萩の乱を起こす前原一誠の実弟である。東京の木戸や山縣は、山田が前原に呼応するのではないか、と危惧していた。山田を解任し、乃木を後任にして叛乱を防ごうとしたのである。
山田は、素直に乃木に従い、退任した。山田は、玉木の薫陶を受けた乃木はその志を汲んでくれると思ったのである。
乃木の弟、正誼が訪ねてきた。何時決起するのかと聞く。
立たない。乃木は明言し兄弟は別れた。
神風連が決起した。ついで秋月藩士族が前原との連携を試みた。乃木は藩士らを何なく鎮圧した。
前原も決起した。やはり長州出身の三浦梧楼少将により、前原たちは一週間で鎮圧された。乃木の弟正誼は戦死し、師である玉木文之進は、弟子たちが叛乱に加わった責任を取って自殺した。
悲劇は終わらない。
明治十年二月十五日、ついに西郷隆盛が立った。西郷軍は、一路、熊本城に向かったが、守将谷干城の防禦体制は完璧だった。
包囲戦は長期化の様相を帯びた。
二月十九日、乃木は小倉から久留米に入った。銃を受け取る事になっていたのだが、船が遅れている。
二日待って、乃木は一部の兵を残し、熊本城まで進軍する決断をした。
二月二十二日夕方、乃木軍は、薩摩軍と遭遇した。
火力では優勢だったが、日が暮れると照準をあわせられない。
白兵戦になると示現流の使い手が揃った薩摩勢が有利だった。けれど、乃木軍も果敢に防いだ。
午後九時、乃木は退却を決意した。連隊旗手の河原林雄太少尉は、軍旗を巻き取り、背中に括りつけた。
四十分後、千本桜まで退却して、乃木は河原林がいないのに気づいた。
乃木は、軍旗を失ったのである。
戦前の日本軍において、天皇の軍旗を失う事は、最も大きな罪とみなされていた。敵に奪われそうな場合には、焼却することが作法とされていた。
乃木の場合、乱戦のさなかであるから同情する者も少なくなかったが、なぜ自害しないのか、と陰で嗤う者も少なくなかった。
乃木は最前線に好んで進み、田原坂をはじめとして激戦に参加し、数度負傷し、病院から抜け出しては奮戦した。
結局、戦死できなかった。
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軍旗の扱いは、御真影よりも厳しいものだったが、第二次大戦末期にはかなり弛緩した。
ニューギニア攻略を目論んだ、ポート・モレスビー攻撃作戦は、峻険なオゥエン・スタンレー山系を踏破するというきわめて野心的な作戦 —水木しげる氏が従軍した事で知られている— だったが、ガダルカナル方面の戦況悪化に伴い、補給が途絶したため作戦は山越えした段階で中止され、撤退は地獄の様相となった。
朝日新聞記者、岡田誠三は、この作戦の前半をテーマとして小説「ニューギニヤ山岳戦」を描いて第十九回直木賞を受賞した。後半は検閲を畏れて描かれていない。
何とか帰国し、新聞記者を勤め上げた後に上梓した本で、岡田は撤退戦の実相を描いている。「全線に退却が知れわたると、兵隊はしばらく茫然とした。だが、山の彼方に焦点を合わせていた目的意志は、ひとたび敵に背を向けると、逃げのびることにとりつかれた。
軍旗が谷へ投げられた。赤道の南までのびきった日本軍の最先端で組織の崩壊が起ったのだ。軍旗を失った退却の道に命令序列はない」(『定年後』)。
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