vol.1 「尊敬する人物から愚将、凡将へ。乃木の評価はなぜ一変したか」はこちらをご覧ください。
十五歳、乃木は家出をした。
当時、乃木家は長府に一戸を構えていた。
父、希次は謹慎処分を解かれたのみならず、その剛直さを評価されて、世子の教育係に抜擢された。
希次が、張り切ったのは云うまでもない。
医師の家系から、願って武士になり、一度、勘気を被ったものの、召し出されて大任を仰せつかったのだから。
その転変の背後に、幕末の風雲がもたらした藩政の動揺があった事も事実だろう。
いずれにしろ、希次は、張り切った。
幼い世子たちが、わがままを云うと、寒中、凍った池に浸かった。
希次の身体が青く凍えていくのを見て、世子たちは、泣きながら詫びたという。
世子たちに、厳しく接した希次が、みずからの息子たちに、より烈しく接したのは、当然のなり行きだったろう。
弟の真人は闊達なたちで、父の苛烈さを、上手くやり過ごす事が出来たが、もともと真面目なうえに線が細かった希典は、正面から受け止めてしまった。
その末に、ついに思いつめて萩へと出奔したのである。
長府から萩まで、約七十キロある。
大半が、山中の道だ。
上り下りが嶮しい。
その道のりを、一晩で歩んだという。
行き着いたのは、萩の玉木家であった。
玉木家は、乃木家の分家である。
当主の玉木文之進は、吉田松陰の儒学の師であった。
もともと文之進は、杉家の三男。
長男の百合之助が、杉家の家督を嗣いだ。
次男の大助は、吉田家の養嗣子となった。
そして三男の文之進は、玉木家の養子となったのである。
吉田家に入った大助の仮養子(百合之助の次男)が、松陰大次郎矩方(吉田松陰)である。
吉田家は、毛利藩において代々、山鹿流兵法を司っていた。
大助が早逝したため、弟の文之進が、松陰の教育にあたった。
文之進は、松陰を徹底的にしごいた。
家学を絶やしてはならない、という使命感は、封建時代においては、どれほどの厳しさを帯びたとしても肯定されるものであった。
松陰は、その厳しさに耐え、しかも厳しさによって曲がる事がなかった。
十一歳で松陰は、藩主に御進講をした。
感動した毛利敬親は、「師は誰だ」と問うたという。
その玉木家に乃木はやってきた。
「武士の家に生まれて武芸を好まずば百姓をせよ」
文之進は、云い渡した。
希典は、田畑に出た。
微禄の文之進は、自ら耕さなければ暮しが成り立たなかったのである。
夜は、炉端で四書を訓えてくれた。
松陰が江戸で刑死して、まだ四年もたっていない頃であった。文之進からも、その妻からも、たびたび松陰の話が出た。
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松下村塾は、文之進がはじめた塾である。
もともと、松本村の杉家の一角で近在の子供たちに読み書きを教えていた。
安政元年、松陰は来航した米国艦隊に乗り込み、渡航しようとした廉で捕縛され、萩の野山獄に投ぜられた。
安政二年に釈放され、杉家に蟄居した。藩内の有志が松陰を訪ねるようになって、塾の性格がいささか変わった。
久坂玄瑞を筆頭に、高杉晋作、入江九一、吉田稔麿らが集い、教えを受けた。
画期的だったのは、身分上の差別がなかったという事である。
元来近在の子供たちが通っていたという性格が間口を広くしたのか、伊藤博文や山縣有朋といった、武士どころか一人前の百姓の身分ほどしかない連中も、仲間入りしたのである。
伊藤の場合、松陰を師と仰ぎ、敬慕したという形跡は、あまりない。さほど高い評価を受けなかった―「周旋の才あり」―という心持ちもあったのだろう。
とはいえ、松下村塾に通った事により、伊藤は高杉晋作、井上馨と出会い、長州過激派の一員となって、世に出るきっかけを得たのである。
同時に、松下村塾での身分制度を超えた連帯の形が、武士からなる正規軍とするどく対立する、奇兵隊を生みだした。
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下関港から山陽本線に沿って国道一九一号線を十分ほど走ると、桜山神社がある。
文久三年、高杉晋作の発議により、殉国の志士の霊を祀る招魂場を作る事になり、慶応元年八月、下関新地岡の原、通称桜山に招魂場が設けられた。各地の招魂場のなかで、もっとも古いものとされる。
桜山神社には、奇兵隊参加者を中心とした志士たちが祀られている。正面中央の吉田松陰のものだけがやや大きいが、高杉、山縣ら他の墓碑は同じ大きさである。
面白いのは、久坂、入江とともに、工人治助、小者弥吉、力士政五郎といった隊員の墓も、同じ大きさで並んでいることだ。
ここに、日本におけるデモクラシーの源流がある、と云ったらいいすぎだろうか。
東京の招魂社、現在の靖国神社は、やはり長州出身の木戸孝允の指示の下、大村益次郎の提議により建設された。
国家神道について優れた業績を残している阪本是丸氏は、「靖国神社は"国家神道の重要な柱"として成立」したとする議論は、「歴史的に成立しえないと考える」とその主著『国家神道形成過程の研究』で記している。
阪本氏によれば東京での招魂祭において、神祇官は戦死者取り調べの実務に関与しておらず、軍が主体となっていた。そこに、軍国主義の萌芽を見る事は可能であろうが、国家に尽くした戦死者を差別しない、近代の原理が顕れているのも否定できないだろう。
以降 vol.3 へ。