乃木希典 vol.1

尊敬する人物から愚将、凡将へ。乃木の評価はなぜ一変したか

 乃木希典という人は、六本木と縁が深い。

 乃木坂という駅があるくらいだから、見え透いた話だが、外苑東通りに面した、旧乃木邸と乃木神社については、誰でも知っているだろうが、生家も六本木にあった。

 現在の番地でいえば、六本木六丁目、六本木ヒルズの裾野が拡がる北側、毛利庭園の向かい側に乃木家の屋敷があったのである。

 乃木家は、元来、長府藩江戸屋敷詰の侍医であった。

 長府藩(豊浦藩)は、慶長五年、萩藩の支藩として毛利秀元によって開かれた。かつては雄山城という城も構えていたが、幕府の一国一城令によって破却されている。

 長府は、元寇の際には長門警固番役が置かれるなど、古来、軍事的に重要な地点として認識されてきた場所である。現在も、武家屋敷の街並みがある。

乃木の人格を作った父親の折檻

 川端一丁目にある功山寺は、鎌倉時代末期に創建された名刹で、内陣に「此堂元応二年卯月五日建立」という墨書がある仏殿は国宝に指定されている。元応二年は西暦一三二〇年である。

 功山寺は、鎌倉唐様建築の代表的存在というだけではない。幕末の回天史にも重要な役割を果たしている。

 文久三年の政変で京都を追われた三条実美が太宰府に渡るまで滞在したのが、この寺だし、実美の前で高杉晋作が奇兵隊、力士隊を率いて蹶起をしたのも功山寺であった。

 吉田松陰と縁のある玉木家と縁戚関係にあった乃木が、そうした歴史を血肉として感じていたであろう事は、想像するまでもない。

 話を生家に戻す。

 乃木の父、希次は、医師である事に満足しなかった。嫌った。

 当時の医師は、「長袖者流」と呼ばれていたように、現在の医師よりも、茶坊主や幇間に近い存在だった。古典落語に出てくる医者を思い浮かべていただければ、その社会的なイメージはよく解るだろう。

 希次は、藩に願い出て歴代の職である典医を離れ、武士になった。もちろん時代の空気が大きく与っていただろう事は、容易に想像がつく。

 累代の武士ではなく、俄になったものが武士らしい武士になろうと励み、無理を重ねるというのは、新撰組などにも見られる現象である。

 希次は、武張りに武張った侍になり、そのために問題を起こして、禄を没収されたうえに萩本藩へ追放になってしまった。

 無役で萩におわれた希次の矛先は、子供たちに向いた。自然と年長の希典が、一番の標的になった。影を見るだけで怯えるような、繊細な少年は、毎日、父親から厳しい折檻にあった。

 この体験が、乃木希典の人格を象った事は間違いないだろう。過度のストイシズム、自己抑制、自己犠牲・・・。

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 乃木希典について書きたい、というような存念をずっと抱いていた。夏目漱石や森鴎外のような、第一級の知性に強烈な刺激を与えた乃木が、なぜ今日、軽蔑されるようになったのか。

 敗戦によって、いわゆる軍国主義が地に堕ち、その代表として厭われるようになった、つまりは敗戦が、転機になった、と考えるのは理に適っているようだが、実際には異なっている。

 佐々木英昭『乃木希典』によれば、昭和三十年代半ばまで乃木は、「尊敬する人物」の上位を占め続けていたという。つまりは高度経済成長の下で、繁栄を謳歌しているうちに、乃木に象徴される禁欲や自己犠牲は色褪せていったのだ、と考えられるだろう。

 今一つの要因は、司馬遼太郎の作品であろう。『殉死』、『坂の上の雲』で描かれた乃木像が浸透していく過程で、乃木を愚将、凡将と見る事が一般化してきた。

 公表はされなかったが、戦前から陸軍の一部には、日露戦争、旅順攻略の用兵についての批判はあった。その代表的なものが陸軍大学教官谷寿夫の『機密日露戦史』である。司馬の乃木批判は、ほぼ谷の論点と重なっている。谷は、戦後、南京事件の責任を問われて銃殺に処されてしまった。

 谷に対する批判は、軍内でも根強かった。第一次世界大戦において、コンクリートで固められた要塞は砲撃だけでは陥落させる事は出来ず、多量の兵力の投入が必要であるという戦訓が得られていたからである。

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 たしかに日露戦争は第一次世界大戦の前哨戦という意味を、軍事的には持っていた。

 機関銃を据えたトーチカにたいする攻撃は至難であるという教訓を、日露戦の観戦武官たちは皆、本国にもちかえっている。

旧乃木邸 乃木坂駅近くにある。明治天皇崩御で、妻と共に殉死したのもこの家の中だった

 「観戦武官」という言葉は今日の読者には耳なれないかもしれない。

 例えば日本とロシアが戦争をすると、日本側にも、ロシア側にも、第三国の将校たちが従軍し、見学をするのである。

 それは、軍事技術等の実験を見る機会でもあるし、日本のような「後進国」にとっては、国際法を遵守する立派な国だとアピールする機会でもあった。実際、乃木の指揮ぶりは、観戦武官たちに感動を引き起こした。ボーア戦争の名司令官イアン・ハミルトンは、乃木に眠れなかったのは何時だったかと質問したという。

「『旅順の開城した一月二日の晩でしたね。砲声がぴたりとやんで了つて、私は到頭一睡も出来ませんでした』と答へられた。/親しく接すれば接する程、乃木将軍の印象が深められてゆく」(『思ひ出の日露戦争』松本泰訳)。

 ダグラス・マッカーサーも、観戦したとその回想録に記している。「私は突然、日露戦争観戦のために日本に派遣されている私の父のもとへ行けという命令を受けた。私はこの観戦で多くのことを見、聞き、学んだ(中略)私は大山、黒木、乃木、東郷など日本軍の無口な、近づき難い男たちに、ぜんぶ会った」(『マッカーサー回想記』津島一夫訳)。

 だが残念ながら、マッカーサーは本当は「観戦」していない。彼が日本に着いたのは、ポーツマス条約の締結後だったのである。

 その約半世紀後、GHQの総司令官を解任され、日本を去るにあたって、マッカーサーは、旧乃木邸の庭にハナミズキを植樹した。

以降 vol.2 へ。

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