石原莞爾 vol.8

石原を巡る旅の最終地、ジュネーブで国際連盟を想う

vol.7 「ドイツの地で額を接していた、第二次世界大戦のはじまりと終り」はこちらをご覧ください。

 先週、ベルリンの悪口を云っておいて何だが、ジュネーブも嫌いな街である。ジュネーブに比べると、ベルリンの方がまだ、人間の住むべき場所だ、という気になる。

 何というのだろう、陰影がないのだ。すべてがデオドラントで、てかてかしている。もちろん、人間が住むところなのだから、何らかの暗がりはあるのだろうけれど、磨きあげられたようにピカピカした市街は洋菓子のようだし、貧乏くさい花時計だの、何の工夫もない噴水だのを平気で、名物にしておいて、収まっている図太さも嫌いだ。

国際連盟本部が置かれたジュネーブのウィルソン宮。昭和8年、日本は連盟を脱退した

 たしかにジュネーブは、食については恵まれている。

 訪れた平成九年当時、ル・ベアルンというレストランがミシュランで二つ星を獲得していた。そこでランチを取ったが、まあ、結構なものでした。

 スイスは、人口比で一番、ミシュランの星が多いらしいが、当時もローザンヌのジラルデは、堂々たる三つ星で日本から飛行機で駆けつける客がいたそうな(ジラルデは、弟子の代になってフィリップ・ロシャと名前を変えたが、相変わらず三つ星を維持している)。

 料理が宜しいのは、めでたい限りなのだが、ギャルソンにチップを渡したら、かつて体験したことがない程喜び、涙ぐまんばかりの勢いだった。

 彼だけでなく、どこのカフェ、レストランに行ってもその調子で、大変に感激してくれる。

 そう、ジュネーブは私の知るかぎりもっとも拝金主義者の街である。何しろジャン・ジャック・ルソーをさしおいて、市内の一等地に立っている一番大きな銅像が、遺産を全部、市に寄附した金持ちだというのだから、その価値観もわかるだろう。

 もっとも、私は山岳等にまったく興味がない人間なので、平均的日本人からすれば特殊な意見を抱いている可能性が強いので。

なぜ国際連盟は崩壊したのか

 昭和七年八月初め、石原莞爾中佐は満州を離れた。

 四年ぶりの帰国である。

 大佐へと昇進し、陸軍兵器本廠付となった。

 このポストは一時的なもので、二ヵ月後、石原はジュネーブの国際連盟総会臨時会議にさいしての代表随員に選ばれた。

 同年の二月末から半年、リットン調査団は満州各地を巡り、十月に連盟に調査書を提出したのである。

 報告書は柳条湖事件が、張学良側の謀略によるものであるという日本の主張は退けたものの、東三省に広範な自治をあたえ、自治政府に外国人顧問を任命すること―その内わけで日本は充分なる割合を占める―などを提議した。

 つまりリットン報告は、東三省を日本を中心とする列強の共同管理下におくことを説いていた。列強は、日本の排他的な覇権を否定する一方、日本の優先的地位を認め、日本が国際連盟と妥協することを期待したのである。

 調査書への反応は複雑だった。

 天皇、西園寺公望や牧野伸顕、海軍条約派など英米との連携を第一とする勢力は、リットン報告の線で妥協すべきだ、と考えていた。

 けれども、陸軍のみならず、国論の大勢はリットン報告の拒否に傾いていた。満州国は、不況にあえぐ、日本国民にとって、もっとも具体的な希望であり、未来への約束だったのである。

 石原は、代表団にさきだってシベリア鉄道の客となった。モスクワでは、国防大臣のヴォロシーロフが、石原との会談を希望した。日本大使館は、大佐にすぎない石原が大臣と会うのは好ましくないとして、エゴロフ参謀総長と会った。

 石原にとって、代表団の一員であることは、さしたる重荷ではなかったが、松岡洋右全権以下、外交官たちは悲愴であった。

 ジュネーブで最も豪華なホテル、メトロポールを借り切り、毎夜、欧州中からかけつけた日本人たちを交えての酒宴が繰り広げられた。

 松岡は怪気炎をあげていたが、内心は不安でならなかった。最後の最後で、列国は日本を引き留めるだろう、報告を否決するだろうという希望にすがりながら、毎晩シャンパンを干した。

 昭和八年二月二十四日、連盟総会は賛成四十二、反対一、棄権一で、報告書を採択した。

 ∴

 日本は、国際連盟崩壊の口火を切ったと史上語られている。

 実際に、パリ講和会議後、英、米、仏、伊と共に国際秩序を担う責任をもちながら、連盟の決定を不服として脱退してしまったのだから、無責任と誹られても仕方がないことであろう。けれどもまた、ウィルソン米大統領が提議した理念自体が、はじめから無理と矛盾を含んでいたのではないか。

 それは、誰にも出来ない約束だった。人種平等原則の否決はその最初の兆しではなかったか。

 世界各国の、外交官、外交関係者が必ず読むといわれる『外交』の著者、ハロルド・ニコルソンは、実際に講和会議に関わった人間として、自分たちは、ウィルソンの弟子たろうとしてパリに赴いたが、背信者として帰ってきた、と語ったという(『大英帝国の外交官』細谷雄一)。

 ニコルソンは、横柄で人の話に耳を貸さず、現実的問題に興味を持たないウィルソンの人格それ自体に、アメリカ外交の本質を見いだしている。

「熱心で誠実な他の諸国の代表からすれば、アメリカはヨーロッパに対して、自ら実行する気のないような正義のために自己犠牲を要求し、気後れし不安で絶望的となるような空気を生みだしているという疑念が生じた」(同前)

 たしかにウィルソンの理念は美しい。けれど実際アメリカがなしているのは何なのか。ネイティブ・アメリカンの独立も、南部諸州の分離も、フィリピンの独立も一切認めずに、ヨーロッパ諸国にたいしては、民族自決の断行を強要している。多様な民族が、交じりあいながら暮らしてきた歴史を理解しようともせず、定規を充てるようにして、オーストリアからチェコとスロバキアを切り取り、さらにドイツからズデーテン地方を切ってはり合わせてしまった。

 自らが実行する気のない、高潔さを他国に無理強いした者、その傲慢と無責任が、はじめから実現できない約束を作りあげてしまった。

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