「拗ね者」が無題で記していた、「革命」としての総力戦体制
永井荷風Vol.8

vol.7はこちらをご覧ください。

 昭和十二年、『濹東綺譚』の刊行後、永井荷風は、ほとんど小説を書いていない。

 還暦を迎えた昭和十三年二月に『おもかげ』、四月に『女中のはなし』を執筆した後、浅草オペラ館のための脚本『葛飾情話』、十四年に『下谷叢話』の改訂版、十五年三月『すみだ川』が小川丈夫の脚色によりオペラ館で上演されるという具合でほとんど筆を折ったに等しい状況であった。

 母が死去した際(昭和十二年九月)にも、弟と顔を合わせる事を厭うて弔問しなかった程、狷介も昂進している。

 とはいえ、その状況にたいして寂しさを感じさせないのは、やはり『断腸亭日乗』が書き継がれていたからだろう。その内容は時勢の傾きに抗するようにして、日々厳しさを増していく。

「今日我国の状態は別に憂慮するに及ばず。唯生活するに甚不便になりたるのみなり。今日わが国に於て革命の成功せしは定業なき暴漢と栄達の道無かりし不平軍人と、この二種の人間が羨望妬視の極旧政党と財閥、即明治大正の世の成功者を追退け之に代りて国家をわがものにせしなり。曾ては家賃を踏倒し飲酒空論に耽り居たる暴漢と、朋党相倚り利権獲得にて富をつくりし成金との争闘に、前者勝を占めしなり。

 今日のところにては未日浅きを以て勝利者の欠点顕著ならされども遠からずして志士軍人等それ等勝利者の陋劣なること、旧政党の成金と毫も異るところなきに至るは火を見るよりも明となるべし。幕末西藩の志士の一たび成功して明治の権臣となり忽堕落せしが如き前例もあることなり。こゝに喧嘩の側杖を受けて迷惑するは良民のみなり。火事に類焼せしと同じく不時の災難にてこれのみは如何ともする道なく、唯不運とあきらめるより外は無し。

 手堅き商人は悉く生計の道を失ひ威嚇を業とする不良民愛国の志士となりて世に横行す。されど暴論暴行も或程度に止め置くこと必要なり。牛飲馬食も甚しきに過ぐれば遂には胃を破るべし。隴を得て蜀を望むといふ古き諺もあり。志士軍人輩も今日までの成功を以て意外の僥倖なりしと反省し、この辺にて慎しむがその身の為なるべし。

 米国と砲火を交へたとへ桑港や巴奈馬あたりを占領して見たりとて長き歳月の間には何の得るところもあらざるべし。若し得るところ有りとせんか。そは日本人の再び米国の文物に接近し其感化に浴する事のみならむ。即デモクラシイの真の意義を理解する機会に遭遇することなるべし。(薩長人の英米主義は真のデモクラシイを了解せしものにあらず。)」香

肥大化してゆく大政翼賛会

 昭和十六年九月六日の項に、「無題録」と題して収められた文章である。

 この日、御前会議により、帝国国策遂行要領を決定し、十月上旬までに外交交渉が進展しない場合には対アメリカ、イギリス、オランダとの戦争に踏み切るという決定が下されている。

 大東亜戦争にいたる昭和史の道筋は錯綜したものだが、英米との戦いが不可避のものとなってしまったのは、この七月二十八日、日本の陸海軍部隊が南部仏印へ進駐してからの事だった。南部仏印に進出する事は、オランダ領東インド等の石油資源獲得を視野に入れたものであったが、アメリカは即刻、対日石油輸出を全面的に停止した。このため日本は、石油備蓄量を睨みながら、屈服か開戦かのいずれかの選択を迫られる事になった。

 「無題録」は、昭和の新時代、二・二六事件を端緒とし、盧溝橋事件以降の総力戦体制が作りあげられてゆく過程を、一つの「革命」として捉えている。

 軍部に対抗するために設立された、大政翼賛会をはじめとする新体制運動により、旧来の藩閥、財界人は凋落を余儀なくされ、「不良民愛国の志士」が幅を利かす事になった。とはいえ「別に憂慮するに及ばず」と荷風は云う。それは「唯生活するに甚不便」になっただけの事だ、と。アメリカの対日禁輸に激昂する世論を前にして、荷風は呟く。たとえサンフランシスコやパナマを占領しても、何の意味があるだろうか、と。もしも得るものがあるとすれば、せいぜいアメリカの文物に感化されること、特にデモクラシイの意義を理解する機会を得ること位だろう。

 もちろん、当時、この文章は公開されてはいない。戦後になってはじめて活字になったものである。その点では、なんら公的、政治的意味合いをもたない、世を拗ねた、独善の文章と断じられても仕方がないものだろう。とはいえ、荷風が、そのすべての意味合いを睨みながら、後世に対して、語るべきを語り残した事は、文人として、鮮やかな立ち居であった事は、否定できまい。

 中央公論社に勤務していた杉森久英が、大政翼賛会に転じたのは「まったくの偶然」だった、という。旧知の友人が翼賛会が人員を募集していると教えてくれたのだ。

 中央公論社は、谷崎潤一郎の『源氏物語』の大ヒットなどで業績は順調だったが、戦時色が強まるなか軍及び治安当局からの圧力は増すばかりだった(結局、杉森が退職してから一年半後に、中央公論は政府の命令で解散させられた)。

 杉森は興亜局企画部に配属された。局長は、政党政治家の永井柳太郎(永井道雄の父)、企画部長は元外務省アジア局長の桑島主計、副部長は文部省の課長をしていた増谷という人物で、典型的な寄せ集め集団だった。

東京會舘 国民統制組織・大政翼賛会の本部は、東京會舘(東京・千代田区)に置かれていた

 杉森は、企画部に資料室を作る任を帯びて採用されたのだが、局長以下、誰もそうした事情を知らされていなかった。「まあ、そのうち、そういうことも考えてみようか」というような具合で、立ち消えになった。

「実際に興亜局にどんな図書や雑誌類があったかというと、縦横それぞれ三メートルくらいの、ガラス戸のついた二段重ねの書棚の中に、乱雑に押し込まれた『東洋経済新報』『ダイヤモンド』『エコノミスト』『外交時報』などの雑誌を、黒い紐で綴じた合本や、いろんな政治団体、経済団体、研究所などから送って来る報告書類の綴じ込みや、アジア関係の研究書などが、すこしばかりあるだけで、寒い日など、石炭不足の補いに、誰かがそれらをストーヴの中へほうり込んでも、制止する者もないという状態だった。私は、これはえらい所へ迷い込んだと思った。しかし、今さら中央公論社へ帰らせてくれというわけにもゆかなかった」(『大政翼賛会前後』)

 杉森の描く大政翼賛会の組織は、おなじく戦時下で肥大に肥大を重ねていったイギリス情報省の官僚組織を描いた、グレアム・グリーンの『働く人々』を彷彿とさせる。お役所仕事は、東西、敵味方、を問わない。

週刊現代2011年7月16・23日号より

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