希代のヒットメーカーが挑むメディカル・エンタテインメント VOL.6
『陽の鳥』 著者:樹林伸

 森彦に袖を引かれた伊庭はよろけつつ歩み寄り、首をかしげて窓際からの光景を眺めながら、
「いいんじゃないですか、先生」

 と、何の感慨も浮かばぬ表情で答えた。当然だろう。そもそも記念写真を撮る理由さえも、彼女には見当がつかないはずなのだから。感慨の代わりに、何をいまさら職場の写真なんか、という不満が顔にありありと浮かんでいる。そんな気まぐれに付き合わされて、朝の七時に研究室に呼び出され片づけをさせられては堪らないという顔で、生あくびを噛みころしている。

 契約助手の伊庭は、筑波市内に住むごく普通の二〇代後半の主婦である。結婚は早くにしているそうだが、子供はまだいないとのことだった。いちおう関東大学生物学部の細胞学系学科を卒業しているものの、キャリアを生かせる就職ができず、かといって経済的理由で院生にもなれなかったらしい。そういう事情だから大学に未練があったのだろう、大学の事務職員と結婚して市内に家庭をもちつつ契約助手の仕事を探していた時に、森彦の出した求人を知って応募してきた。

 もっとも、彼女が望んでいた仕事は、森彦たちが求めていたものとは多少違っていたようで、失望感もあってか、与えられた仕事はきちんとこなすものの、頼んだ以上のことまでは気を回してくれない。そういうことでは彼女の望むものは決して手に入らないのだという現実には、どうやら気付いていないらしいが、森彦にしてみればどうでもいいことで忠告する気もなかった。

 今のところまだ、『P因子』の発見を含む研究成果の重要な部分は、アルバイト職員たちには知らせていない。いずれは伝えるつもりだったが、伊庭たち契約雇用のスタッフたちは、よく働いてくれてはいるものの、研究の根幹である知的作業には関わることのない言わば雑用係なのだ。いきなり一身上の都合とやらで明日にでも退職してしまう可能性もあり、また事実そういう者もこれまでに何人かいた。

 研究室内のすべてについて守秘を原則とすることは雇用条件に含まれていたが、それでも漏洩の不安があることは否めないし、契約スタッフたちには成果が科学誌などで発表される直前にでも知らせれば角は立つまいということで、名嘉城と意見が一致していた。

「名嘉城さんは、どうなさったんですか、沖田先生」

 写真撮影に夢中だった森彦に、伊庭がいつのまにか淹れていたコーヒーを自分だけで飲みながら訊いてきた。

「記念写真なら、ご一緒のほうがいいんじゃないですか。せっかくお二人の研究室なんですから」

 自分はしょせん部外者だと言わんばかりだ。研究の核心部分から外されていることは、彼女も当然承知しているはずだから仕方ない。

「彼からはさっき電話があったよ。頼まれた水仙の造花は朝早くに買ってきて飾っておいたから、あとはよろしくってね。なんでも、医局から急な呼び出しだそうだ」