石原莞爾 vol.7

ドイツの地で額を接していた、第二次世界大戦のはじまりと終り

vol.6 「極寒のハルピンで、ロシア文化の残像を見る」はこちらをご覧ください。

 ベルリンは、あまり好きな街ではない。

 料理が不味いのは覚悟していたけれど、街中にほとんど本屋らしい本屋がないのには閉口した。

 おいしいビールと料理、それに卓越した古本屋が、たくさんあるミュンヘンが天国のように思われる。

 とはいえ石原莞爾は、ベルリンで石原莞爾になったといってもよい訳だから、ベルリンに来ない訳にはいかないのだった。

 私が、はじめてベルリンに来たのは、一九九六年の夏だった。

 『甘美な人生』で平林たい子賞を受賞し―三島由紀夫賞に続いて、二度目の賞だったけれど、一度きりで終ったのではない事に安堵した。何といっても、批評家は対象となる文学賞等が小説家に比べると格段に少ないので―、その賞金を抱えて、ベルリンに発ったのであった。

 今、思うと九六年の夏は、私の人生において、動きの大きい年だった。九月からは江藤淳さんの推挽で―江藤さんは、翌年四月から大正大学に移ることになっていた―、慶應大学藤沢キャンパスの助教授―まだ、准教授という言葉はなかった―になることが決まっていた。

サンスーシー宮ポツダムに遺る。18世紀中盤にフリードリヒ2世の命で建築。世界遺産に指定されている

 ベルリン空港は実によく出来た空港で、空港の設計、建設については、ドイツ人は世界一だという評判は、納得できるものだった。

 クーダムの裏手のホテルにチェックインし、フランクフルトから電話で予約しておいたイタリア料理店で夕飯をとった。

 ミシュラン赤で店を探して、予約したのだから、すでに私のミシュラン信仰は、揺るぎないものとなっていたのだろう。

 一応、付言しておくと、ヨーロッパのミシュランと、東京、京都・大阪、香港・マカオ、アメリカのミシュランはまったく別のものである。細かい字で、みっちりと必要最小限の情報が記載され、さまざまな位相での評価―アクセスや、ペット同伴の可否、値段と質のバランス等々―が提示されているヨーロッパの赤ガイドは依然として素晴らしい。

 で、そのイタリア料理店が、いきなりボヤをだして、消防隊が、なぜか楽しそうにやってきて、申し訳程度に水を撒いたが濡れた灰の匂いで店内が満ちて、さんざんのベルリン第一夜であった。

 もっとも、翌日行ったレストランでは、主人が勘定を間違えて、半分程度しか―オーパス・ワンを呑んだので、かなりの額になったはず―取られなかったので、まあ、行って来いという感じではあるけれども。

弁証法から導いた『世界最終戦論』

 余談に字数を使ってしまったが、ベルリンで石原莞爾が石原莞爾になったというのは、彼の滞在中、第一次世界大戦についての、論戦が繰り広げられたからだ。

 この論戦は、戦史研究家でクラウゼウィッツ研究の大御所でありベルリン大学の教授でもあった、ハンス・デルブリュックが提議したもので、ヒンデンブルクとルーデンドルフの主導権の下で行われたドイツの戦略が、敵との「決戦」に拘ったため、「決戦」を放棄し、「持久」を心がけたイギリス、フランス、アメリカ等の連合軍に敗れた、というものであった。

 実際、敗戦は多くのドイツ国民にとって寝耳に水であった。ロシア・ソビエトを優勢のうちに屈服させた後、東部戦線から引き上げた大軍を一挙に投入して、連合軍の息の根を止めるはずがあっけなく降伏してしまったからだ。

 この敗北の原因を、ドイツ軍部は、「背中への一刺し」と呼び、左翼が、あるいはユダヤ人が画策した陰謀によるものだと宣伝した。

 それを批判し、「真の敗因」を提示したのがデルブリュック教授だったのである。

 デルブリュックは常に敵にたいして決戦を強いて一挙に勝利をおさめようとしたドイツにたいして、連合軍は決戦を急ぐドイツの内情を見透かして、兵力や資材等の消耗を強いる持久戦略を取ったのだ、と指摘したのである。それはまたプロイセン・オーストリア以来のドイツ参謀本部の基本的な決戦戦略の限界を示すものであった。

 ルーデンドルフとその幕僚たちは激昂し、次ぎ次ぎに教授を批判する論文を発表したが、デルブリュックは、一人で対抗し、彼等の論理を打ち破ったのである。

 石原は、当然、この論争に注目し、学び、そこから『世界最終戦論』を創りだしたのだ。

 石原は、この論争をいわばヘーゲル弁証法の形として整理した。つまり決戦と持久戦が、交互にイニシアティブをとる形で、戦争の形態が進歩していくと考えたのである。

 たとえば、ナポレオンが国民的徴兵によって組織した軍隊で、移動速度や輸送量を飛躍的に増進することで、従来の君主国の軍隊を駆逐したのにたいして、その戦略に気づいたイギリスが決戦を挑むナポレオン軍を持久によって消耗させる戦略により破った、という具合に。

 この弁証法的発展の最後に、世界最終戦争が行われ、人類の永遠平和が実現される、というのである。

「戦争発達の極限に達するこの次の決戦戦争で戦争は無くなるのです。人間の争闘心は無くなりません。闘争心が無くならなくて戦争が無くなるといふのはどういふことか。国家の対立が無くなる。

 即ち世界がこの次の決戦戦争で一つになるのであります。/これまでの私の説明は突飛だと思ふ方があるかも知れませんが、私は理論的に正しいものであることを確信する次第であります」(『世界最終戦論』)

   ∴

 石原は、渡独した直後、首都ベルリンを避けて、近郊のポツダムに下宿した。ポツダムはフリードリヒ大王の造成した巨大なサンスーシー宮で有名だが、石原の下宿は、より小規模なチェチリエンホーフ宮に隣接していた。

 一九四五年七月十七日から、石原の下宿からよく見えるチェチリエンホーフ宮に、トルーマン、スターリン、チャーチルの米ソ英の三巨頭が集い、大戦の終結条件と、日本の占領方針を論議した。

 もしも、満州事変を第二次世界大戦の端緒とするならば、そのはじまりを印した石原莞爾と、その終りを示した三者会議は、わずか数メートルの差で額を接していることになる。

 石原は、核兵器の開発により、最終戦争が完遂した、と戦後説いた。その予言は、残念ながら的中しなかった。

以降 vol.8 へ。

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