永井荷風Vol.7
場末の裏町通りを縁取るのは過去の幻影か、私娼の手招きか

vol.6はこちらをご覧ください。

 荷風は『濹東綺譚』を昭和十一年十月二十五日に脱稿した。

 『綺譚』は、朝日新聞の連載小説として執筆されたが、荷風は日毎の執筆を好まず、全篇完成した後、原稿を引き渡した。翌十二年四月十六日夕刊から連載され、木村荘八の挿絵とともに読者の好評を博した。日独伊防共協定が締結され、「祭政一致」という不可思議なスローガンを掲げて林銑十郎内閣が成立した時期である。

 結果として『濹東綺譚』は、荷風の代表作となるのだが、本人にとっても自負の深いものだったらしく、私家版として自ら撮影した玉の井の写真十一枚を挿して作製した。ただし私家版の製本が気に食わずにほとんどを廃棄したので、稀覯本となっている。

 『濹東綺譚』の魅力は、さまざまな角度から語られている。アンドレ・ジィドの意匠の仕様。華麗な風景描写と詩情。ラディオや新聞記者、雑誌記者などメディアへの嫌悪・・・。

 野口冨士男によれば、武田麟太郎は『濹東綺譚』は、玉の井ではなくせいぜい亀戸だ、と指摘したという(『わが荷風』)。

 その意味は、玉の井にしては、あまりに綺麗すぎるという事だろう。新橋や神楽坂、あるいは吉原、洲崎より遥かに品下る、当時最低の私娼窟、「じごく」と呼ばれた玉の井の凄さは、とてもこんなものではない、と。

娼妓を恋人にした文学青年たち

「一体この盛場では、組合の規則で女が窓に坐る午後四時から蓄音機やラデイオを禁じ、また三味線をも弾かせないと云ふ事で。雨のしとゝと降る晩など、ふけるにつれて、ちよいとゝの声も途絶えがちになると、家の内外に群り鳴く蚊の声が耳立つて、いかにも場末の裏町らしい佗しさが感じられて来る。それも昭和現代の陋巷ではなくして、鶴屋南北の狂言などから感じられる過去の世の裏淋しい情味である。

 いつも島田か丸髷にしか結つてゐないお雪の姿と、溝の汚さと、蚊の鳴声とはわたくしの感覚を著しく刺戟し、三四十年むかしに消え去つた過去の幻影を再現させてくれるのである。わたくしはこの果敢くも怪し気なる幻影の紹介者に対して出来得ることならあからさまに感謝の言葉を述べたい。お雪さんは南北の狂言を演じる俳優よりも、蘭蝶を語る鶴賀なにがしよりも、過去を呼返す力に於ては一層巧妙なる無言の芸術家であつた。

 わたくしはお雪さんが飯櫃を抱きかゝへるやうにして飯をよそひ、さらゝ音を立てゝ茶漬を掻込む姿を、あまり明くない電燈の光と、絶えざる溝蚊の声の中にぢつと眺めやる時、青春のころ狎れ暱しんだ女達の姿やその住居のさまをありゝと目の前に思浮べる。わたくしのものばかりでない。友達の女の事までが思出されて来るのである」(『濹東綺譚』六)

 たしかに、鶴屋南北が引き合いにだされると、それはちょっと・・・と口をはさみたくなるかもしれない。

 安岡章太郎氏の『悪い仲間』は、戦前期の自暴自棄でありつつ滑稽な青年像を描いた作品だ。作中の登場人物は、小説的彫琢を施されてはいるが、氏自身は無論として、古山高麗雄、佐藤守雄、高山彪、倉田博光といった仲間―学生であったり、浪人であったりする文学青年たち―の横顔を描いている。安岡氏に続き、『プレオー8の夜明け』で芥川賞を受けた古山は、玉の井の娼妓と同棲した、倉田博光について短編「真吾の恋人」でこう書いている。

「タミ女が倉田と暮らすようになる前、私は何回か、倉田と一緒に玉の井に行った。/倉田が、タミ女の切り窓の見える場所に私を連れて行って、/『あの女だよ、僕の恋人は』/と言ったのは、たぶん、十六年の秋である。/私も、倉田を、勝子の切り窓の見える場所に連れて行って、/『僕の恋人は、あの女だ』/と言った。/勝子については、十年ほど前に、『わたしの?東綺譚』という題で書いたことがあるが、あのころの私は、金の続く限り、勝子に会いに行ったのだった。/戦前のわが国には、公許の遊廓があり、玉の井のような黙認の私娼街があった。(中略)

 玉の井の娼家は、みんな同じような造りになっていた。みんな小さな二階屋で、一軒に二つずつ露地に面して、呼び込み窓が切ってある。顔が見えるだけの小窓であった。その呼び込み窓から、女が、露地を通る男に声をかける。窓から女が声をかけている部屋が呼び込み部屋で、そこに坐る娼婦を、業者は出方と言っていた。

 どの娼家も、窓を切った呼び込み部屋が二つ並んでいて、その奥が帳場になっている。二階に二人の女の小部屋があって、女はそこで客を取る。二階にはそのほかに、客と交渉する引き付け部屋と呼ばれる部屋があって、女は引き付け部屋で料金を受け取ると、じゃ、お部屋で待っててね、と言って、客を自分の部屋に入れ、料金を帳場に下ろして上がって来るのであった。(中略)

 タミ女も、八十円ほどの借金をしていたのだそうだが、しかし、倉田がタミさんと同棲できたのは、彼女が自前で、借金がそれぐらいのものだったからである。八十円なら倉田に払える。昭和十七年の八十円は、今の二十万円ぐらいのものだろう。勝子の前借金は四百円か五百円ぐらいではなかったか。あのころの五百円は、今の百二、三十万円だろう。戦前はそれぐらいの金で、人を二年も三年も拘束して、客をとらせることができたのである。/倉田は、タミさんに八十円進呈して、同棲してくれと言ったのだ。いわゆる身請けをしたのではない」

 倉田は、山田真吾というペンネームの童話作家だとタミに語っていた。「一緒に暮らすようになってから倉田は、これ原稿料だよ、僕だってたまには原稿料が入るんだよ、と言ってお金をくれたことがありましたが、嘘だとわかっていました。親からもらったお金を、原稿料だと言って、ミエをはっているのです。けれども私は、そう、と言って、倉田にミエをはらさせました」(「来し方ばかり」)。

いろは通り 小説『濹東綺譚』の舞台・玉の井(東京・墨田区)のいろは通りは私娼街であった

 倉田がタミと暮らしたのは三ヵ月ほどだった。ほどなくして倉田は応召し、昭和二十年フィリピンで戦死した。

 その四十年後、古山はタミから手紙を受け取った。読売新聞に掲載された自伝抄を読んだのである。タミは、倉田と別れた後、故郷であるいわき市内郷綴町に帰り所帯をもった。その間、夫に隠して倉田の原稿と、城北予備校時代の写真を保存していたという。三十三年連れ添った夫が死去した事もあり、是非、お目にかかりたいというのだ。かくて「真吾の恋人」は書かれた。

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