『検察の大罪 裏金隠しが生んだ政権との黒い癒着』 著者:元大阪高検公安部長 三井環

 原田検事総長の心中も複雑だっただろう。自らの決断で「裏金作り、嫌疑なし」として巨悪にふたをし、検察としての存在理由である「正義」を犠牲にしたからである。ここには、過去培われてきた「検察イコール正義」という神話と、検察OBに対する配慮もあったと思う。また、検事総長として天皇から認証され、正義を体現するはずの原田自身が、犯罪に手を染めた事実を自分自身で受け入れたくない、という思いがあっただろう。

 そんなとき、私は原田の幕引きを見て、それまでは匿名であったが、現職のまま実名で、裏金問題をマスコミに知らせようと再び動き出したのだ。

 しかし、それを原田が察知すればどうするか。「告発されるかも知れない」と知ったときの、原田の恐怖心は想像を絶する。折しも外務省の裏金問題で、世の中が外務省を猛烈にバッシングしていたころだ。それをわが身一身に受ける覚悟など、できるはずもない。彼は、半ば逃亡者のような心境で方法を探した。

 「三井を黙らせるにはどうしたらいいか・・・」

 そして、これ以上ない悪を自ら抱え込んで、法務検察は動いた。でっち上げで私を逮捕することこそが、彼らの出した答えなのだ。

ドタバタ逮捕

 でっちあげ逮捕が私に及ぶことは、私は全く気付かなかった。その気配も感じなかった。それが作られた事件であったから。だが、裏金作りを公表するというからには、検察はなにがなんでも、どんな手段を使ってでも、堀の中に閉じ込めるのではないか。裏金作りを「嫌疑なし」にして、真っ黒を真っ白にしたのと同じように・・・。

 法務検察はやろうと思えばどんなことでもできるのだ。そのことに思いを致さなかったのが、私の不徳の致すところである。

 このときの原田の焦りを端的に表すエピソードがある。ぜひご紹介したい。悲喜劇とも言えるようなドタバタ劇だ。

 平成一四年四月一七日、週刊朝日の山口一臣から、私が勤務していた大阪高等検察庁公安部長室に直接の電話があった。二二日の昼からテレビ朝日「ザ・スクープ」キャスターの鳥越俊太郎氏が取材収録をしたいといっている、とのことだった。私がこれを了承すると、二二日に場所を連絡する、といって、その電話は切られた。

 保釈になってから山口一臣から聞いたことだが、この電話をかけたとき、直通電話のはずが、なぜか違うところに転送された、ということだった。おそらくそのタイミングで盗聴なり、何かの細工をしていたのだろう。収録日程や場所の情報は、これによって検察側に筒抜けになっていたのではないか、というのだ。いずれにしても、テレビで裏金問題を「スクープ」されたらまずいと思った検察は、どこからか収録の日程を聞きつけ、すぐに行動に移る。

 翌一八日午後三時ごろ、大阪高検の大塚清明次席検事から、それまで眠っていた私のでっちあげ逮捕につながる「荒川メモ」(後述)が大阪地検に手渡された。

 しかし佐々木茂夫大阪地検検事正は、私の逮捕に反対したという。原田検事総長が、直接東京から陣頭指揮した逮捕だといわれている。そこで主任の大仲士和検事が急遽、逮捕に向けた諸準備を始めた。そして、第一次逮捕が敢行されることになる。

 結局、私は大仲検事の捜査報告書一本で逮捕され、通常は逮捕時に準備される関係者の調書は、一通もない。

 私の取り調べをした水沼裕治検事は、逮捕前日の二十一日夕方、日曜日も終わるかというときに召集された。主任検事の大仲が裁判官に令状請求し、裁判官から許可が下りたのが二十一日の深夜である。

 読者は、「微罪」ですらなく、関係者の調書もない第一次逮捕の案件(後述)で、令状が裁判官からすぐ出るのか、と不思議に思われるかもしれない。だが、これが裁判官は「自動販売機」と言われるゆえんである。待ち焦がれた令状を取るために、大仲はその日ホテルに泊まったとのことだ。

 そして、翌二二日早朝、私は当時の自宅の玄関先で、大阪地検特捜部の検察事務官から任意同行を求められ、車で大阪高検まで連れて行かれることになる。三七階が私の通常の部屋だったが、その日は二〇階あたりに連れて行かれ、何も言わずにいきなり午前九時ごろ逮捕となった。