『ケチャップの謎 世界を変えた"ちょっとした発想"』 著者:マルコム・グラッドウェル 翻訳:勝間和代

 その日も終わりに近づき、タレブたちはふたたびnの平方根の問題に取り組んだ。タレブがホワイトボードに向かい、スピッツネーグルが見つめ、アングスパンはぼんやりとバナナの皮を剝いている。窓の外で夕陽が樹々の奥に沈みかけている。

「p1とp2に転換する」。タレブが言う。マーカーが再び激しくきしる。「ガウス(正規)分布だ。そして少量生産から大量生産へと転換するマーケットだ。p21とp22。固有値がある」。

 タレブが眉根を寄せて、ホワイトボードの書き込みを見つめた。今日はすでに市場が閉まり、今日もエンピリカは損失を出した。ということは、今日もコネティカット州の森のどこかでニーダーホッファーが儲けたのだろう。

 それは痛手だ。それでも勇気を奮い起こし、目の前の問題に頭を働かせ、「世界では予期せぬ出来事が常に起こるのだから、いつかマーケットが予期せぬ事象を起こす」と信じていれば、痛手もそれほど悪くない。

 タレブがホワイトボードの方程式をじっと見つめ、片方の眉をつりあげた。やはり難問だ。

「ドクター・ウーはどこにいる? ドクター・ウーを呼んだほうがいいかな?」

4

 タレブが会いに行った一年後、ニーダーホッファーが"吹っ飛んだ"。

 S&P指数のオプションを大量に売り、他のトレーダーから莫大なカネを受け取る引き換えに、市場が急落した際には複数株式を一括して現行価格で買い取るという「バスケット取引」の契約を結んでいた。ヘッジはされていない。ウォールストリートで「ネイキッド・プット」と呼ばれる方法である。

 すなわち、ニーダーホッファーは顧客全員を相手にひとつの結果に賭けた。小金を稼ぐという大きな可能性に賭け、大金を失うという小さな可能性に賭けなかったのである─そして賭けに負けたのだった。

 一九九七年一〇月二七日、アジア通貨危機のあおりを受けてマーケットは八%も暴落し、オプションを買った多くの投資家がニーダーホッファーのもとにいっせいに電話をかけ、暴落前の価格で株式を買い戻すよう要求した。

 手元資金と預金と株式の一億三〇〇〇万ドルを使い果たしてもまだ、ブローカーたちの手には行き渡らなかった。全米屈指のヘッジファンドはあっという間に破産に追い込まれ、ニーダーホッファーは会社をたたむほかなかった。

 屋敷を抵当に入れ、子どもたちからカネを借りた。

 サザビーズを呼び、高価な銀のコレクションを手放した─一九世紀のブラジルの政治家、ビスコンデ・デ・フィグイレドのためにつくられた「勝利の彫刻群」、ヨットレースのジェームズ・ゴードン・ベネット・カップのために一八八七年に製作されたティファニー社製の銀杯などだ。

 ニーダーホッファーはオークション会場には近づかなかった。見ていられなかったのである。

「あれは人生最悪の出来事だった。愛する者の死と同じくらいの衝撃を受けたよ」。ニーダーホッファーは先だってそう語った。二〇〇二年三月のある土曜日のことだ。

 彼は大きな屋敷の書斎にいた。背が高く、いかにもアスリートらしく上半身が発達している。面長の印象的な顔に、まぶたのかぶさった、どこか禍々しさのある目。靴は履いていない。シャツの片方のカラーは内側によじれ、話すときは目を逸らす。

「友人たちを失望させてしまった。仕事を失った。一流のファンドマネジャーと言われていたのに、また、ほとんどゼロからはじめなければならなかった」。いったん言葉を切る。

「あれから五年が経った。ビーバーはダムをつくり、川はダムを押し流す。だからもっとしっかりした基礎を築こうとする。私もそうしてきたと思う。だから二度と失敗を繰り返さないよう、いまは常に注意を払っているよ」

 誰かが遠くでドアをノックする音が聞こえる。ミルトン・ボンドという画家だった。メルヴィルの小説『白鯨』を題材にした、捕鯨船ピークォド号に体当たりする白鯨の油彩を贈呈に来たのだという。

 自分の好むフォークアートスタイルの油彩だったため、ニーダーホッファーは玄関ロビーまで会いに行き、ボンドが包みを開けると、油彩の前に膝をついて絵を眺めた。

 ニーダーホッファーは別のピークォド号の絵画も、小説の元となった実話の捕鯨船エセックス号を描いた油彩も何点か所有している。仕事場の壁の目立つところにはタイタニック号の絵も飾ってある。いずれも「謙虚な気持ちを失わないため」だと言う。

「私がエセックス号に強く惹かれる理由は、ひとつには、船を沈めた船長がナンタケット島に戻ってきたとき、すぐに次の仕事に就けたからだ」。ニーダーホッファーが続ける。

「捕鯨船が鯨に体当たりされて沈没し、救命ボートで命からがら島に戻ったとき、島民は船長を称えて、『まだ船に乗る気はあるのか?』と訊ねた。船長はこう答えた。『稲妻は二度と同じ場所に落ちない、と言うからな』。

 船が鯨に激突されるのはかなりランダムな事象だろう。ところが、船長が再び航海に出ると、今度は船が氷に閉ざされて沈没してしまうんだ。そのとき、船長は放心状態だった。乗組員が助けようとするのも拒み、船から無理やり連れ出されなければならなかったという。

 結局、船長はナンタケットの島守として余生を送った。ウォールストリートで言うところの"亡霊"になったわけだ」

 ニーダーホッファーは書斎に戻り、瘦せて骨張った身体を伸ばし、足をテーブルの上に乗せる。それでも目がしょぼしょぼしているように見える。

「わかるだろう? 二度の失敗は許されない。今度失敗したら、本当の落伍者だ。それがピークォド号の教訓なんだ」

 ニーダーホッファーが吹っ飛ぶ一ヵ月ほど前、タレブはコネティカット州ウエストポートのレストランでニーダーホッファーとディナーの席についていた。ニーダーホッファーは「ネイキッド・プットを売っている」とタレブに話した。

 テーブルを挟んで向かい合うふたりの姿が目に浮かぶようだ。ニーダーホッファーは、ネイキッド・プットを許容できるリスクだと説明し、株価が暴落して全財産を失う確率は極めて小さい、と語った。

 タレブはそれを聞きながら、かぶりを振り、ブラックスワンのことを考えていた。

「レストランを出たときは、憂うつな気分だったよ」。タレブが言う。

「テニスコートで延々とバックハンドを打ち続ける男。チェスをすればプロ顔負けの腕前。目を覚ましたときに、『今日はこれをしよう』と決めたことは何でも、他の誰よりもうまくできるような男だ。彼は私のヒーローだった・・・」