『ケチャップの謎 世界を変えた"ちょっとした発想"』 著者:マルコム・グラッドウェル 翻訳:勝間和代

 普通のトレーダーが日々の利益から得るものは手応えであり、自分は前進しているという心地よい錯覚だ。エンピリカではその反応が得られない。

「それはまるで一〇年もピアノを弾いているのに、子どもが片手で弾けるごく単純な曲も満足に演奏できないようなものだ」。スピッツネーグルが言う。

「それでも自分を前進させるものはただひとつ、ある朝、目を覚ますと、自分がラフマニノフのような腕前になっている、という強い信念だけなんだ」

 エンピリカが血を流し続けるそばから、ニーダーホッファー─タレブがすべての間違いを象徴していると考えていた人物─が利益をあげていると知って、心穏やかでいられただろうか? もちろんそんなことはない。

 タレブの様子を少しでも注意深く観察すれば、ちょっとした仕草で、絶え間ない損失が痛手になっているのが見て取れたはずだ。ブルームバーグのマーケット情報にずっと視線を注いでいた。コンピュータを覗き込み、毎日の損失総額を頻繁にチェックしていた。

 タレブには縁起をかつぐさまざまな癖がある。利益があげられた日と同じ場所に車を駐める。マーラーを嫌うのも、利益があげられなかった去年の長い時期を連想させるからだ。

「タレブはいつも僕が必要だと言ってくれるし、僕もタレブを信じている」とスピッツネーグル。スピッツネーグルがそこにいるのは、待つことの重要性をタレブに思い出させ、タレブがすべてを投げ出し、損失の痛みを食い止めようとする人間本来の衝動に屈しないようにするためだ。

「スピッツネーグルは私の警官だ」とタレブが言う。アングスパンも同じだ。アングスパンがそこにいるのは、タレブにエンピリカの知的な優位性を再認識させるためだ。

「重要なのはアイデアがあることじゃなく、そのアイデアを活かす方策を持っていることだ」。タレブが続ける。「説教してもらう必要はない。必要なのは秘訣だ」。

 タレブがここで言う「秘訣」とは、状況ごとに具体的な対処方法が明記されたプロトコル(実行の要領)である。

「だから、プロトコルをつくりあげた。こう言うためだ。私の指示を仰ぐんじゃなく、プロトコルの言うことを聞け、とね。

 さて、私にはプロトコルを変える権利がある。だけど、プロトコルを変えるためのプロトコルがある。為すことを為すために、自分に厳しくなければならない。ニーダーホッファーに見られるバイアス(偏り)は私たちにも存在するから」

 クオンツたちのディナーの席で、タレブはロールパンにかぶりつく。ウエイターがもっとロールパンを運んでくると、タレブが「だめだ、だめだ!」と大声をあげて、手で皿を覆う。そのような理性と感情の闘いが際限なく繰り返される。ウエイターがワインの壜を手に近づく。

 タレブが慌ててグラスを手で覆う。ステーキ・アンド・フライを注文する。「フレンチフライ抜きで!」。だがすぐに、隣の席の人間にフレンチフライを分けてくれるよう交渉し、注文のリスクをヘッジしようとするのである。

 心理学者のウォルター・ミッセルが幼児を対象にこんな実験を行ったことがある。部屋にひとりずつ幼児を入れ、目の前にふたつのクッキーを置く。ひとつは小さな、もうひとつは大きなクッキーだ。そして子どもに言う。

 小さなクッキーが欲しいときは、ベルを鳴らせばすぐに大人が部屋に入ってきて、クッキーをくれる。けれど、大きなクッキーが欲しければ大人が部屋に入ってくるまで待たなければならない。それは二〇分後かもしれない。

 ミッセルのビデオには、六歳児たちがクッキーを見つめ、待つために自分自身をなだめる様子が収められていた。ある女児は歌をくちずさみはじめた。

 言われたことを小声で繰り返しているようだ─大きなクッキーが欲しかったら、待たなくちゃだめよ、と。女児が目を閉じる。クッキーに背を向ける。ある男児は両脚を激しくぶらぶらさせたあと、ベルを手に取ってじっと見つめ、これを鳴らせば小さなクッキーがもらえるのだ、とじっと考えている。

 テープは幼児が規律と自制、つまり衝動を抑制するための方法を身につけはじめる様子を映し出しており、幼児たちが懸命に気を紛らわせようとしているその姿を見たとき、私はある事実にはっと気づいた。子どもたちは、まさにナシーム・タレブそのものなのだ!

 タレブの意志の固さを、縁起をかつぐ病的な癖やシステム、自分を否定するような発言以上に説明するものがある。

 ニーダーホッファーに会いに行く一年ほど前のことだ。当時、タレブはシカゴ・マーカンタイル取引所のトレーダーだった。喉の痛みが続いていたが、最初はたいして気にもとめなかった。

 喉が痛むのは連日、トレーディングフロアに立つ人間の職業病みたいなものだ。だがニューヨークに戻ったあとで医師に診てもらった。診療室の椅子に座り、中庭のありふれたレンガを見つめ、壁にかかる医師免許状を何度も繰り返し読み、検査結果を待ち続けた。

 医師が戻ってきて、厳かな低い声で告げた。「検査結果が出ました。思ったほど悪くはありませんよ」。だが、もちろんタレブにとっては悪かった。咽頭がんだったのだ。

 頭のなかが真っ白になった。雨のなか、傘もささずにいつまでも歩き続け、やがて医学図書館にたどり着き、濡れた身体が足下に水たまりをつくるまで、咽頭がんについて一心不乱に調べた。筋が通らない。

 咽頭がんは、生涯煙草を吸い続けてきたような人間がかかりやすい病気だ。タレブはまだ若い。ほとんど煙草を吸ったこともない。咽頭がんにかかる確率は一〇万人にひとり。想像もつかないほど低い確率だ。タレブはブラックスワンだった!

 すでにがんは克服したが、その記憶はまた、タレブの固い意志の秘密でもある。なぜなら一度ブラックスワンになったら、見ただけでなく自分がブラックスワンとなって生き、そして死と向かい合ったならば、地平線に別のブラックスワンを思い描くことはずっと簡単だからだ。