『ケチャップの謎 世界を変えた"ちょっとした発想"』 著者:マルコム・グラッドウェル 翻訳:勝間和代

「タレブは自分の行動について、いつも極めて概念的でしたね」

 そう語るのは、一九八〇年代にフランス系のインドスエズ銀行でタレブのアシスタントを務めていたハワード・セーバリだ。

「タレブはよくフロアトレーダー(ティムという名前だった)を激怒させていました。フロアトレーダーは"正確であること"に慣れています。普通は『先物を八七ドルで一〇〇枚売るように』などと指示しますね。でもタレブは受話器を取って、こう言うんです。『ティム、少し売ってくれ』。するとティムが答える。『どのくらい?』。

 タレブが言います。『そうだな、まとまった数だ』。まるでこんな言い方なんですよ。『具体的な数はわからないが、ただ売りたいんだ』と。するとフランス語で激しい口論がはじまる。金切り声の言い合いですよ。

 それと、みんなで出かけてディナーを楽しむときも、タレブのチームだけは、新しい取引数字なんか別に知りたくもない、といった態度なんです。他のみんながデスクにかじりついて最新の数字に耳を傾けていると、タレブはよく、これ見よがしに部屋を出ていきました」

 エンピリカに『ウォール・ストリート・ジャーナル』はない。人間が活発なトレーディングを行うこともほとんどない。オプションの選択はコンピュータが行うからだ。

 エンピリカが所有するオプションの多くが利益を生むのは、マーケットで"劇的な動き"があったときだけだ。だがもちろん、そんなことはほとんど起こらない。というわけで、ここでの仕事は待ち、そして考えることだ。

 つまり、企業の取引施策を分析し、さまざまな戦略をバックテスト(ある取引手法が、過去の値動きに対して有効であり、利益が出るかどうかを試すこと)する。オプション価格設定の、より高度なコンピュータモデルを構築する。

 部屋の隅に座るトレーダーのダニー・トストが、コンピュータにときおり何かを打ち込む。大学院生のパロップ・アングスパンが、白昼夢に耽りつつ遠くを見つめている。スピッツネーグルはトレーダーからかかってきた電話に出て、コンピュータ画面を交互に切り替えている。

 タレブはeメールの返事を書き、シカゴの企業ブローカーに電話をかけ、ブルックリン出身者のようなブルックリン訛りで話しかける。「ハウユドイン?」。トレーディングフロアというよりクラスルームに近い。

「じっくり考えたかい?」。ランチからぶらぶらと帰ってきたアングスパンに、タレブが声をかけた。アングスパンは博士論文のテーマを訊かれる。

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「だいたい、こんな感じのことですよ」。気だるげに手を振って部屋の中を示す。

「どうやら、代わりに書いてやらなくちゃならないようだな」。タレブが言う。

「パロップはすごく怠け者だからね」

 エンピリカがしてきたことは、伝統的な投資の心理学を逆転させることだ。

 通常の方法で売買すれば、配当や金利、市場全体の活況から判断して、特定の日に小さな利益があげられる可能性は高い。一日で大きく儲けられる見込みは小さい。そして、ごくわずかだが現実的に起こりうるのは、市場が大暴落して投資家が吹っ飛ぶ可能性である。

 私たちはリスク分散を適切と考える。根本的な理由から、それが正しいことだと感じるからだ。アングスパンが読んでいたエイモス・トヴァスキーとダニエル・カーネマンの本には、次のような簡単な実験が紹介されている。

 数人のグループに、それぞれ三〇〇ドルを所持していると仮定してもらい、次のどちらを選ぶかと訊ねる。(A)あと一〇〇ドルを受け取る。(B)コインを投げて表裏を当てたら二〇〇ドルを受け取り、当たらなければ何も受け取れない。すると、ほとんどの人は(A)を選ぶ。では次の場合はどうだろう。

 五〇〇ドルを所持しているとして、次のどちらを選ぶか。(C)一〇〇ドルを返す。(D)コインを投げて表裏が当てられなければ二〇〇ドルを返す。当たった場合にはそのまま何も返さなくてよい。すると今度はほとんどの人が(D)を選ぶ。

 以上の四つの選択肢について興味深いのは、確率論的な視点から見た場合、四つの選択肢ともまったく同じだということである。それでもなお、私たちは(A)や(D)を選びたがる。なぜだろう? それは、いざ「損失」となると賭けても構わないが、「利益」ということとなるとリスクを回避したくなるからである。

 だからこそ、私たちは株式市場で日常的に小さな利益を得ようとする。そしてそれは、暴落の場合には、すべてを失うリスクを冒さなければならないという意味でもある。

 だが、これと対照的にエンピリカには、毎日、たった一日で巨額の利益があげられる、ごくわずかだが現実的に起こりうる可能性がある。

 エンピリカが吹っ飛ぶ危険性はない。いちばん大きな可能性は少額ずつ失っていくことだ。これまで蓄積してきた一ドル、五〇セント、五セントのオプションはまず使われることがなく、すぐに積み上がりはじめる。

 エンピリカのポジションを示すコンピュータ画面の縦列を見れば、ある一日の朝からの損益状況が誰にでも正確にわかる。例えば午前一一時三〇分の時点では、エンピリカがその日、オプションに使った資金の二八%を回収。一二時三〇分には四〇%を回収。

 つまり、まだ半日も終わっていないのにすでに数十万ドルもの赤字を出したことになる。前日は八五%まで回収した。その前日は四八%。その前日は六五%で、さらにその前日も六五%。エンピリカは実際、二〇〇一年の四月以来、特別な例外─九月一一日の同時多発テロのあと、市場が再開された後の数日間を除いて損失を出し続けてきた。タレブが言う。

「うちは吹っ飛べない。死ぬときは出血多量だ」。出血死、つまりじりじりと損失を出し続ける痛みに耐えることこそが、本来、人間が回避すべくプログラミングされていることなのだ。

「ロシア債券を保有している相手がいるとしましょう」。前出のセーバリが解説する。

「その男性は毎日、利益をあげています。ある日、市場が大暴落し、稼いできた全額の五倍の資金を失うとする。それでも、その男性は一年三六五日のうち三六四日は利益をあげて満足している。でも、もっと過酷なのはもうひとりの男性のほうです。

 なぜなら、その男性は三六五日のうち三六四日も損失を出し続け、常に自分の胸にこう問い質すことになるからです。『いつかカネを取り戻せるだろうか? 自分は間違ってないのだろうか? カネを取り戻すのに一〇年かかったら? 一〇年後も自分は正気でいられるのだろうか?』」