『ケチャップの謎 世界を変えた"ちょっとした発想"』 著者:マルコム・グラッドウェル 翻訳:勝間和代

 ウォールストリートで、これほど極端にオプションを買い続ける会社はない。だが、ブラックスワンが株式市場で発生したときには、そしてランダムな事象がウォールストリート全体を激しく揺るがし、GM株を例えば二〇ドルまで押し下げたときには、タレブがアテネのみすぼらしいアパートメントで余生を送ることはない。巨額の利益を手に入れる。

 先ごろ、タレブはウォールストリートの北のはずれにあるフレンチレストランにディナーに出かけた。テーブルを囲んだのは全員がクオンツだった。膨らんだポケット。オープンカラーのシャツ。穏やかで、どこか超然とした雰囲気を漂わせ、空想に耽る大勢のクオンツたち。

 タレブは端の席に座ってパスティス(リキュールの一種)を飲み、フランス文学について議論を戦わせていた。もじゃもじゃした白髪が目立つチェスのグランドマスターもいた。旧ソ連のチェスの世界チャンピオン、アナトリー・カルポフを教えたこともある人物だ。

 他にも、スタンフォード大学を卒業し、エクソン社やロスアラモス国立研究所、モルガン・スタンレー、フランス系の投資銀行などで華麗なキャリアを積み上げてきた男性など。話題は数学やチェス。あるいは「誰々がまだ来ていない」だとか、「誰々にこんな噂がある」だとか。クオンツのひとりがそわそわしながら言う。「トイレが見つからないんだ」。

 伝票が来ると、ウォールストリートの大手銀行でリスクマネジャーの職にある男性の手に回された。伝票をまじまじと見つめる男の顔には、困惑とそれを面白がるような表情が浮かぶ。こんなつまらない数学の問題を扱うのは久しぶり、といった顔つきなのだ。

 クオンツたちの仕事は、かたちの上では数学を扱うが、実際には認識論を扱う。なぜなら、オプション取引は、売る方も買う方も「本当は自分が何を知っているのか」という問題に直面しなければならないからだ。タレブがオプションを買うのは、「自分が根本的には何も知らない」と確信しているからだ。

 だが、その日、そのテーブルに集った大勢のクオンツは、オプションを売り、オプション価格を正確に設定できれば、GM株につけた大量の一ドルで勝つこともできるし、株価が四五ドルを割り込んでもなお、最後には大きく勝ち越せると考えていた。彼らにとってこの世とは、樹々の葉が夜に、多かれ少なかれ、予測可能なパターンで落ちる場所なのである。

 この相違は、タレブがコネティカットの屋敷でニーダーホッファーに会ったときに浮かびあがったのと同じ構図である。ニーダーホッファーにとっての英雄は一九世紀の科学者フランシス・ゴルトンだ。長女にゴルトと名づけ、書斎にはゴルトンの全身の肖像が飾ってある。

 ゴルトンは英国の統計学者にして、社会科学者だ(遺伝学者で気象学者でもある。チャールズ・ダーウィンはいとこにあたる)。ゴルトンの考えを信奉するのなら、経験的根拠を整理し、データ点を集合させることで、自分の知りたいことがわかると考える。

 対するタレブの英雄は哲学者のカール・ポパーである。ポパーはこう言った。

「ある命題が真であるとは、いかなる確信を持っても知ることはできなかった。わかったのはそれが真実ではないということだけだ─」と。

 タレブはニーダーホッファーから学んだことを重視していると語るが、ニーダーホッファーは、自分の示した例がタレブにはまったくの無駄になったと主張する。

「法廷弁護士が主人公のテレビドラマで、ある人物が、英国国教会の神を信じない主教に裁かれる、という滑稽な筋書きの番組を見たことがあるが」とニーダーホッファー。「タレブは経験論を信じない経験主義者だ」。

 経験が信用できないと考えるのなら、経験から学べると称するものはいったい何だろうか? 今日、ニーダーホッファーはオプションを売って多額の利益を得ており、売っている相手とはたいていタレブである。換言すれば、ある日、ふたりのうちのどちらかが利益を手にしたとしたら、それは相手側から流れ込んだ可能性が高い。

 教師と生徒は略奪する者と獲物になったのである。

3

 タレブが以前、投資銀行のファーストボストンに勤めていたころ、タレブをおおいに悩ませたのは、トレーディングフロアでの、まるで愚行としか思えない光景だった。

 トレーダーは毎朝出勤して取引するのが当たり前とされ、売買で稼いだ額に応じてボーナスを受け取る。何週間も利益がないと同僚におかしな目で見られるようになり、それが何ヵ月も続くと職場を追われた。

 たいていのトレーダーは学歴が高く、サヴィル・ローの最高級仕立てのスーツに身を包み、フェラガモのネクタイを締め、猛スピードで愛車のタイヤをきしらせ、出社した。『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙を丹念に読み、テレビの周りに集まってはニュース速報を見逃すまいとする。

「連邦準備制度理事会(FRB)がこうした。スペインの首相がああした」。タレブが当時を振り返る。「イタリアの財務相が、為替平価の切り下げ競争はないだろうと発言した。『この数字は予想より高い』。ゴールドマン・サックスの株式ストラテジスト、アビー・コーエンがたったいま、こう発言した、などなど」。タレブにはまるで理解できない光景だった。