『ケチャップの謎 世界を変えた"ちょっとした発想"』 著者:マルコム・グラッドウェル 翻訳:勝間和代

 タレブはときどき午後に車を走らせて、ニューヨーク市立大学の哲学の講義に通う。夜にはニューヨーク大学の大学院課程で財政金融学の教鞭を執る。

 そのあとはよく、トライベッカにあるオデオンカフェのバーに姿を現す。確率論的なボラティリティ(変動率)について熱弁を振るっていることもあれば、ギリシャ生まれのエジプトの詩人C・P・カバフィに対する称賛を延々と述べていることもある。

 エンピリカ・キャピタル社は、コネティカット州グリニッチ郊外の森に囲まれた、特徴のないコンクリートのビジネスパーク内にある。オフィスはおもにトレーディングフロアから成るが、マンハッタンのスタジオアパートメントほどの広さしかない。

 タレブがその一角に、ラップトップを前にして座っている。周りを四人のスタッフが囲む─チーフトレーダーのマーク・スピッツネーグル。同じくトレーダーのダニー・トスト。プログラマーのウィン・マーティン。そして大学院生のパロップ・アングスパン。スピッツネーグルはおそらく三〇代か。あとの三人はせいぜいハイスクールの学生にしか見えない。

 部屋の一隅には詰め込みすぎの書棚。テレビは消音のまま、経済専門チャンネルのCNBCに合わせてある。古代ギリシャ人の頭像がふたつ。ひとつはタレブのコンピュータの脇に置かれているが、もうひとつはどういうわけか、ドア横の床の上に放り置かれ、まるでゴミの日に出すためみたいだ。壁には、ギリシャ工芸品展の少々傷んだポスターが一枚。

 くだんのイスラム教国の法学者の写真。そしてエンピリカ・キャピタル社の「守護聖人」である、哲学者カール・ポパーの小さなペン画だけだ。

 二~三ヵ月前のある春の朝、エンピリカのスタッフたちは、nの平方根に関する厄介な問題に頭を悩ませていた。「一連のランダムな観察において与えられた数字をnとするとき、nは試算における投機家の確信とどんな関係があるのか?」。

 タレブがドアのそばのホワイトボードの前に立ち、猛烈な勢いでマーカーをきしらせ、考えうる解答を書いていく。その姿をスピッツネーグルとアングスパンが食い入るように見つめる。

 ブロンドのスピッツネーグルは中西部の出身だ。ヨガの愛好者。タレブとは対照的で、口数が少なく冷静な雰囲気がにじみ出ている。バーで喧嘩を吹っかけるのがタレブならば、仲裁にはいるのがスピッツネーグルだろう。

 いっぽう、パロップ・アングスパンはタイ系であり、プリンストン大学の大学院で金融数学の博士号の論文に取り組んでいる。黒い髪を伸ばし、どこかユーモラスな印象を与える。

「パロップはすごく怠け者なんだ」。タレブは一日に数回、誰にでもなくそう言うのだが、その言葉には親愛の情がこもっている。タレブ用語によれば、"怠惰"は天才と同じ意味を持つ。

 そのアングスパンはパソコンに触らず、ちょくちょく椅子を回しては机に背中を向けていた。認知心理学者のエイモス・トヴァスキーとダニエル・カーネマン共著の本を読んでいたのだが、あてがはずれたような声で、「ふたりの議論はあまり定量化できない」と言った。

 三人は「nの平方根」をめぐる難問についてひたすら議論していた。タレブが間違っているのかもしれなかったが、結論が出る前にマーケットが開いた。タレブはデスクに戻ると、今度は「CDプレイヤーでBGMに何を流すか」について、スピッツネーグルと言い争いはじめた。

 ピアノやフレンチホルンを演奏するスピッツネーグルは、エンピリカのD Jをもって自任していた。彼はマーラーをかけようとするが、タレブはマーラーを嫌っているのだ。

「マーラーはボラティリティには良くないんだよ」。不満げにタレブが言う。

「バッハがいい。マタイ受難曲だ!」。タレブが、グレイのウールのタートルネックを着たスピッツネーグルを指さす。

「マークを見ろ。カラヤンみたいになりたいんだ。ご立派になってお城に住みたいんだ。私たちより技術的に優れている。おしゃべりはなし。トップスキーヤー。それがマークだ!」

 スピッツネーグルがぎょろりと目を回していると、続いてタレブが意味ありげに「ドクター・ウー」と呼ぶ人物がふらりと入ってきた。同じ階の別のヘッジファンド会社で働く、極めて優秀な男だという。瘦せて、黒縁めがねの奥から細い目が覗いている。nの平方根の難問について意見を求められるが、応じない。

「ドクター・ウーがお出ましになったのは、知的な刺激を味わい、本を借り、マークと音楽について語りあうためだ」。訪問者がさまよい出て行くとタレブがそう言う。そして陰鬱な声で加えた。「マーラーの愛好家なんだよ」。

 エンピリカの投資戦略は、きわめて独特なオプション取引だ。一言で言えば、「オプションのみ、それも買い専門」である。オプションとは「一定の期間内、あるいは期日に、あらかじめ定めた価格で株式や債券を売買する権利」のことだ。エンピリカはオプションだけをひたすら買いまくる。株式や債券の売買にはいっさい目もくれない。

 例をあげよう。現在、ゼネラル・モーターズ社の株価が五〇ドルだとする。そしてあなたはウォールストリートの大手投資家だ。オプショントレーダーがあなたのもとへやって来てこう提案する。「三ヵ月以内に、GM株をひと株四五ドルで売りましょう」。

『THE NEW YORKER 傑作選1 ケチャップの謎 世界を変えた"ちょっとした発想"』
著者:マルコム・グラッドウェル
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 さて、あなたはどうするだろう? あなたはその価格で株を買う約束をするために、いくらのオプション価格を設定するだろうか? あなたはGM株の過去の値動きを調べ、三ヵ月間で同社の株価が一〇%も下落したことがめったにない事実を知る。そしてあなたは売買に同意する。

 あるいはそのオプションを、わずかなオプション価格、例えば一〇セントで第三者に転売する。あなたはGM社の株価が今後の三ヵ月、大きな値動きがないという高い確率に賭ける。あなたの読みが当たれば、その一〇セントを純利益として手に入れる。

 反対にトレーダーは同社の株が暴落するという低い確率に賭け、それが現実になれば、莫大な利益を手にする可能性がある。

 トレーダーがあなたから、GM社のオプションを一株一〇セントで一〇〇万株買い、同社の株が三五ドルに下落したなら、トレーダーは三五ドルで一〇〇万株を購入し、今度はあなたに一株四五ドルで売ることになり、トレーダーが巨額の利益を手にし、あなたは巨額の損失を出す。このような独得の取引は、ウォールストリートの用語で「アウト・オブ・ザ・マネー(行使レートが市場レートよりも不利な状態)」オプションと呼ばれる。