2013年11月にリニューアルオープンしたキャピタルホテル1000を津波の被災エリアから望む

 

岩手県陸前高田では、「3・11」の津波の直撃に耐えて、1本だけ残った「奇跡の一本松」が新名所となっている。

復興のシンボルとなった一本松を取材しようと、震災の傷跡が生々しく残る海岸部に向かう途中のことだった。明らかに観光客ではない、地元の方と思われる人たちとすれ違うたびに、口々に「こんにちは」と声をかけられた。

「前のような高田に戻れればいいなって思います。知らない人同士でも、会えば自然に挨拶するような、人と人のつながりを大事にする、温かい町だったんです」

2013年11月1日、陸前高田で営業を再開した「キャピタルホテル1000」のフロント担当、残間薫さんの言葉を思い出す。

このホテルの再開も含めて、人々の心も徐々に復興に向かっていると確信できる出来事だった。

だが、陸前高田の町の風景は、お世辞にも復興が進んでいるとは言えるものではなかった。メインストリートの国道45号にはひっきりなしにダンプカーが砂塵を巻き上げて走り抜け、町のあちこちでは無数のショベルカーが大地を掘り起こしている。その様子は、まるで新しい埋立地を造成しているかのようだ。

7万本あった高田松原のうち奇跡的に残った一本松。現在は防腐処理が施され、復興を象徴するモニュメントとして保存されている

キャピタルホテル1000フロント担当の残間薫さん。リニューアルオープンにあたり新規採用された


2013年12月現在の陸前高田市の湾岸エリアの様子


3・11の大地震によって引き起こされた大津波が、ここ陸前高田の町を飲み込んでから、間もなく3年が経とうとしている。しかし、現在でも3年前までこの地に住宅や商店街など人々の営みがあったとはにわかに信じられない、無機質で荒涼とした景色が広がったままである。

その景色の中で、「ここは埋立地などではなく、人々の生活があった」と無言で主張しているのが、国道45号沿いに残る「道の駅 高田松原」と、「定住促進住宅」だ。


津波で被災した「道の駅、高田松原」(左上)と「定住促進住宅」


特に、見渡す限りの”更地”の中で1棟だけ残っている定住促進住宅は、遠目には震災後に新築された建物かと見間違えるほど原形を保っている。しかし、近づくにつれ、廃墟と化した無残な姿が明らかになってくる。

鉄筋コンクリート造5階建ての4階部分まで津波が押し寄せ、ガラス窓やサッシを破壊しながら海水が部屋内に流れ込み、家財道具の一切を流し去ったーーそうした事実を、この廃墟は雄弁に物語っている。

あの津波の教訓を後世に伝えるために、この定住促進住宅は保存される方針だという。

東日本大震災が引き起こした大津波で町は消えてしまった。

当時は地元・高田高校の2年生で、体育館でバレー部の部活を行っていたというキャピタルホテル1000の残間さん。バレーボールの練習中に、突然地鳴りのようなものが聞こえてきたという。

「みんなで『何だ、何だ?』と言っているうちに揺れてきて、天井から電球が落ちてきたので外に飛び出しました。2〜3分はずっと揺れていたと思います。それから津波警報が出たので、山の上にあったグラウンドにみんなで逃げたんです。そしたら真っ白い波が押し寄せてきて、眼下にあった野球場が一瞬でなくなって……『ヤバい』と思いました」

残間さんの自宅も津波に流されたという。

震災前、陸前高田市内唯一の観光ホテルとして市の象徴的存在だった旧キャピタルホテル1000も建物が全壊し、休業を余儀なくされてしまった。

キャピタルホテル1000の小山剛令会長。ホテルのほか陸前高田市の第3セクター・陸前高田地域振興株式会社の代表取締役として、また、中小企業診断士として町の復興に尽力している
その時の心境を、キャピタルホテル1000の小山剛令(おやまよしのり)会長は次のように語る。

「そんな状態になっても、ホテル再建ができない、ダメだと思ったことは、私は一度もなかったですね。これだけの大震災だから、事業再生のための国の施策が打ち出されるだろうと思っていましたし。先はまったく見えなかったですが、とにかく再建することだけを考えていました」

キャピタルホテル1000は1989年に開業したが、2001年に経営破たんしている。2005年から経営を引き継ぎ、徹底した合理化を行うなど、ホテル再建を先頭に立って指揮してきたのが、現会長の小山さんだった。

「無駄は省いて、必要なところにはコストをかけるという、当たり前のことをしただけです。ホテル内をぐるぐる回って節水や節電を細かく注意したりもしましたが、一方で営業マンには出張費を気にせず営業してもらったり、評判が決して高くなかった料理は、原価率を上げて利益を削ってでも質を高めるなど改善していきました」

努力のかいもあって2011年1月末の資産表でホテルの業績は累積損失を一掃することに成功した。

「累積損失も消えて健全経営になり、ちょうどいいタイミングだし、私は社長を辞めようと思っていたんです。そうしたら……あの津波です。そこで辞めると逃げるみたいで辞められなくなって、ホテル再建のための新会社を作ることにしたんです」

海沿いに建っていた7階建ての豪華リゾートホテルは4階付近まで波に飲まれた。外観はかろうじて保っていたものの、内部はがれきと土砂で足の踏み場もなかった。


震災後のキャピタルホテル1000の外観とその内部の様子


「何がいちばんつらかったかというと、ホテルがなくなってしまったので、従業員に辞めてもらわざるを得なかったことです。私が彼らに解雇を言い渡した時の表情が、いまだにまぶたに焼きついています。不満は一切言わないし、決して暗い表情ではないんです。みんな状況を理解してくれて、ありがたかったですね。当時、ホテルのスタッフは40名ほどいましたが、家族を亡くした人もいたんですよ。この時、『絶対、もう一度みんなを呼び戻すぞ』と強く思いましたね。実際には、再建時にはみなさん他の仕事に就いたりしていて、再雇用できない人もいましたが、この思いが再建の原動力になったのは確かです」

そうした小山会長の熱い思いを耳にしたのが、気仙沼信用金庫・復興支援課の高橋弘則さんだった。

「震災後にお会いした時に『新会社を設立して、何とかキャピタルホテルを再建したい』というお話がありました。小山会長は旧キャピタルホテル1000を経営難から回復させた実績もありますし、陸前高田の商工会で経営指導員もされている経験豊富な方です。あの震災直後では、経営者の強い意志が全てを決めると感じていました。小山会長から『新しいホテルを作るんだ』という強い決意を感じましたので、十分やり遂げられると思いましたね。私たちも金融機関の職員というより、同じ被災者として、一緒にホテルの再建をしなければならないという思いになり、支援に向けて歩み出しました」

しかし、ホテル再建の道は平坦なものではなかった。被災後の復興需要が高まり、人件費や資材の高騰などもあって、総事業費の見積がどんどん増えていった。小山会長はこう振り返る。

「震災関連の補助金はありましたがゼロからの出発ですから、この時点であまりに自己負担額が大きくなると、オープンしてからそれらが重荷となってのしかかっていくという不安はありました。しかしながら、それ以外の方法は思い浮かびませんでしたので、通常の融資で再建しようと進めていました。そんなときです。『被災地の産業復興・雇用創出の役に立ちたい』と三菱商事が設立した復興支援財団を、気仙沼信用金庫さんが紹介してくれたんです。偶然といえば偶然ですが、まさに『運命の出会い』となりました」

こうした人と人の出会いが、キャピタルホテル1000の再出発への道へと続いていくことになる。

気仙沼信用金庫の高橋弘則さん。「今日会ってる人と明日も会える保証はどこにもないことを再認識させられました」。震災後、人と人とのつながりの重要性に改めて気づかされたという


取材・文:中野克哉
フリーランスライター
2012年10月20日、市長も参列して旧ホテル閉館式が行われ、言葉にできないほど数多くの感謝とともに、再出発への思いを一つにした