村上市の講演会場へ向かう車内で横田夫妻は「とにかく話をじっくり聞きたい」 〔PHOTO〕橋本 昇 7月20日午前4時前。大韓航空機爆破事件の実行犯で元北朝鮮工作員の金賢姫(キム ヒヨン ヒ)元死刑囚(48)は、政府のチャーター機から羽田空港に降り立つと、瞬く間に専用車へと移動した。警護のスタッフがいくつもの傘を差して、タラップから車までのわずかな距離に"花道"をつくる。
これは上空の報道ヘリから金氏の姿を撮らせないためであって、金氏の命を守るためではない。ナイロン傘で銃弾は防げまい。
金氏は乗り換えた専用車で鳩山由紀夫前首相の軽井沢の別荘へと移動した。この瞬間から、極秘尽くしで目的も意義も分からず終わる「金賢姫様ご招待ツアー 3泊4日の旅」が幕を開けたのだ—。
金氏の訪日計画は、中井 洽(ひろし)拉致問題担当相(68)が7月3日に、「自民党とは違うアプローチで北朝鮮拉致問題の解決を図る」と、参院選の"隠しダマ"にしたことから広く知れ渡った。
無論、拉致被害者の家族にとっては、微かではあっても光明である。拉致被害者の家族会事務局長である増元照明さん(54)が語る。
「昨年、金賢姫さんは、お腹が大きい横田めぐみさんを見たと日本の政府関係者に新たな証言をしたようですが、同時に、めぐみさんと一緒に生活をしていたのが私の姉のるみ子だと証言しているという話を聞いたのです。私は、姉の写真を持って、直接、金さんに尋ねたいんです」
金氏を乗せて来たチャーター機の小ささがよく分かる(羽田空港) 〔PHOTO〕岡内正敏 横田めぐみさんの両親である滋さん(77)、早紀江さん(74)夫妻は、金氏が来日した20日、新潟県村上市で行われた講演会に講師として招かれていた。翌日に金賢姫氏との面会が控える中、早紀江さんは、こう語った。
「私から何かを聞くというより、とにかく何を知っているかまずお聞きしたい」
今回の訪日について、中井氏は「拉致問題に対する問題意識の喚起」というケチのつけにくい旗印を掲げる。だが、被害者家族の心情に立つばかりでは見えない、訪日にまつわる政治家の思惑は存在する。そもそも金氏は、死者115人という大量殺人を実行した元テロリストで、かつ日本のパスポートを偽造した旅券法違反の罪に問われ、時効が成立していないという刑事事件の対象者である。
「入国した際は、警察として逮捕しなければならない人物です」
ある警察庁幹部によれば、警察庁として菅首相にこう進言したという。だが、
「国として金賢姫を招く。拉致問題を打開するためだ!」
国家公安委員長でもある中井氏だが、女性スキャンダルが発覚した 〔PHOTO〕堀田 喬 と怒鳴り散らして話を打ち切ったのが中井氏であった。中井氏と千葉景子法務相の「政府判断」で日本に上陸した金氏が、過去の罪に問われることはない。
訪日に釈然としなかったのは、外務省も同じだった。ある外務省キャリアは、韓国政府から次のようにクギを刺されたことを、はっきり記憶している。
「これまで日本の捜査には十分応じてきた。金賢姫を政治利用しないでほしい」
この外務省キャリアが解説する。
「日本政府は金賢姫の取り調べに莫大な時間をかけてきました。外務省だけでも面会時間は100時間を超え、これ以外に警察庁も事情を聴いている。新しい話が出る可能性は薄く、出たとしても裏付けの取れそうもない過去の話でしょう。
韓国の哨戒艦が北朝鮮の魚雷を受けて沈没した事件が起きなければ5月に来日する予定だったことから考えても、参院選のためのアピールだったことは明白です。そんな狙いが透けて見えたから、韓国政府は外務省に忠告してきたのでしょう」
金氏が公に口を開き始めたのは、'09年の春からだ。3月に田口八重子さん(金賢姫氏の教育係だった李恩恵(リウネ)と目される)の兄・飯塚繁雄さん、長男・耕一郎さんと釜山で面会したほか、5月発売の『月刊朝鮮』('09年6月号)に掲載されたインタビュー記事に登場しているが、その大半は彼女が自身の困窮を嘆くものだった(以下< >は引用)。
< 冬は凍って水道が出ません。正月にも水道が凍って、ご飯が炊けませんでした。外から水を汲んできたのですが、水がもったいなくて食器も洗えなくて、トイレも流せませんでした。『わあ、北朝鮮の生活を韓国でするのか』と思いました >
ある韓国・国家情報院関係者が言う。
「政府から経済的な援助をカットされている金氏が、この訪日で生活費を捻出するのではという推測は当初からありました。官房機密費から謝礼が出るという話やテレビ局2社が各100万円で独占インタビューを撮るという噂もあります」
今年4月、元朝鮮労働党書記の黄長燁(フアン ジヤン ヨプ)氏が来日した際にかかった総費用は10億円とも言われるが、拉致問題の進展はなかった。自民党はすでに、今回の来日にかかった費用について開示を求めている。前出の外務省キャリアが憤って明かす。
「今回、中井大臣は"経費節減"を心掛け、鳩山前首相に軽井沢の別荘を貸してほしいと打診したようです。それでも過去、雅子妃が(実家である)小和田家の別荘に滞在した際の10倍もの人数で警備態勢を組み、加えて朝鮮総聯本部、支部の監視も強化しています。チャーター機の代金などを含めると、1日に億の単位になります。
出所は、官房報償費と外務省のVIP接待用の予算、要は税金です。テロリストの『静かな環境が望ましい』というリクエストに応えて軽井沢まで出掛け、実益の見込めない面会を繰り返す。これが民主党の政治主導の実態です」
家族会副代表である有本明弘さんの妻・嘉代子さんは、静かに言った。
「金賢姫さんが訪日して拉致問題の展望が開けるかといえば、それは『分からない』としか言えません」
中井氏をはじめとした菅内閣の政治的アピールが、被害者家族に"希望"を抱かせておいて、結局、拉致問題の進展につながらないとしたら—。これほど残酷な政治ショーはまたとないだろう。



