“投げ売り”型デフレ
「いま日本全国を襲っているデフレの実態は、企業の“投げ売り”です。物価下落の理由に、規制緩和による量販店の進出や、流通の効率化を挙げる人がいますが、現在のデフレはそんなことでは説明できません。企業の生産性が上がっているわけでもない。今回のデフレの根本原因は、40兆円もの規模に膨れ上がった需給ギャップにある。景気が悪化し続ける中、企業が“投げ売り”に走っている悪性のデフレ状態なのです」
そう語るのは、慶應義塾大学経済学部教授の竹森俊平氏だ。二番底懸念が忍び寄る経済情勢下で、企業は需要の掘り起こしに躍起になっている。これが自らの首を絞める結果になることは後述するとして、まずは“投げ売り”のすさまじい実態を列挙しよう。
'09年、安売りの象徴となったジーンズ業界では、ついに0円ジーンズが登場した。『ジーンズメイト』が、10月に大阪や広島で新規ショップをオープンしたのにあわせ、リーバイス、エドウインのブランドジーンズを無料配布。アメリカのカジュアルブランド『GAP』は、11月に原宿店をオープンした際、ジーンズ1000本を無料で配った。
外食産業の価格破壊も度を越えている。サラリーマンのメッカ・新橋では、ビル一棟借りの居酒屋『新橋応援団 ワタル』が180円でサントリーモルツを飲ませている。かと思えば、五反田の居酒屋『ぼたん』は生ビールを50円で提供中だ。居酒屋以外でも、銀座の中心地に店舗を構える和菓子屋『播磨屋(はりまや)』が始めた『フリーカフェ』では、ドリンクとおかきがタダで振る舞われる。店内には主婦たちが押し寄せ、活況を呈している。無料のコーヒーを飲んでいた、中小企業の社長夫人に聞いた。
「うちの会社も厳しいから、タダって聞いたら、『じゃあ遠慮なく』ということ。銀座三越から取引先へのお歳暮は贈っても、小銭は無駄にしたくないんです」
年末年始の旅行予約が、国内で前年同期比1割減、海外も2~3割減と寒風吹き荒れる旅行業界では、109円という激安旅行プランが登場。インターネットサイト「トクー! トラベル」には、1泊2日で通常8150円の温泉宿が、2食付きで109円というプランまであるのだ。
日本綜合地所など大型倒産が続いた不動産業界もデフレの波に呑み込まれつつある。'09年10月から1000万円(施工面積約90m2)を切る戸建て住宅をネット販売し始めた『エス・バイ・エル』(大阪府)の開発部部長・藤本和典氏は、値下げの理由をこう語る。
「'08年秋のリーマンショック後、2000万円以上の住宅が急激に売れなくなりました。その後も住宅価格が下落を続ける中、『1000万円を切らないとインパクトがない』ということになり、販売を決定した。収入が安定していないなどの理由で、銀行から融資が受けられないお客様からの注文が増えています」
700万円台(工事面積約75m2)の戸建て住宅をネット販売するメーカーも出現した。『アイフルホームFC本部』の広報・宣伝室主任・山口健二氏が、安値の秘密を明かす。
「対面販売による営業コストがかからない上、モデルハウスを建築しなくてもいい。施工面でも、独自の工程・施工管理で作業を合理化し、工期も短縮して、コストダウンしています」
未婚者が増え、客の獲得競争が激化しているブライダル業界では、破格値のプランが人気だ。『ティーブライド』(愛知県)が運営する式場では、衣装代、美容代、写真代まで込みで、たったの4万8000円。
「名古屋の式場は、月に50~60組の式をあげて大盛況です。式の時間は30分ほどで、通常と同じやり方。もちろん讃美歌も歌います。業績は右肩上がりです」(同社広報担当者)
左から無料ジーンズのチラシ、おかきとドリンクが無料のカフェ、180円ビール居酒屋いままさにデフレスパイラル
民主党政権がデフレを認めたのは、'09年11月20日。12月18日には、日本銀行の白川方明(まさあき)総裁も、「デフレ解消に向けて中央銀行が努力を続けていく」と足並みを揃えたが、市場関係者の多くは、「いまさら動き出しても手遅れ」と失笑を漏らす。その理由を、前出・竹森氏が続ける。
早急な政策対応なくして、デフレの早期克服はないが、藤井裕久財務相(左)と白川方明日銀総裁は、手をこまねくばかりだ「実はIMF(国際通貨基金)は、日本の景気回復はドイツより早く、'10年の日本の成長率は1.7%、ドイツが0.3%だと予想していた。ところが'09年9月のG20で、藤井裕久財務相がガイトナー米財務長官に為替不介入の姿勢を示し、急速な円高を招いた。さらに、麻生政権が可決していた補正予算を10月に停止。歳出削減策を進め、事業仕分けのパフォーマンスもやった。第2次補正は国会を通過するのが1月で、執行が2月になると、4カ月間も景気対策が遅れることになります。
今後、たとえパワフルな景気対策を打ったとしても、その効果は小さい。景気対策が遅れている間に物価がさらに下がり、賃金も下がっている。不動産ローンを返済できない人が増え、債務を返済できない企業が破綻するような状況になっているからです。景気対策の遅れが、ますますデフレスパイラルの要因を高めています」
もう一点注目したいのが、10年前に日本を襲ったデフレとは性質が異なるということだ。みずほ総合研究所のエコノミスト・松本惇(あつし)氏が言う。
「今回のデフレを10年前と比べると、金融面での悪化は軽微ですが、需要の落ち込みは当時をはるかに上回っている。当時は海外経済が堅調で、欧米に物を売ることで景気は回復しましたが、今回そのような役割を欧米に期待することは難しい。需要が回復しない上、一度下げた物価はそう簡単には戻らない。もはや日本が自律的にデフレから脱却することは難しく、少なくとも'11年度まではデフレが続くでしょう」
こうしてデフレが深刻化する中、「負け組」の企業はより窮地に立たされている。
ユニクロを展開するファーストリテイリング、イオン、ニトリなど低価格で他社を圧倒する巨大企業は収益を伸ばし、ニトリは、'10年2月期の連結純利益が前期比18%増の216億円になると発表。11期連続で過去最高益を更新した。その一方、価格競争に追随せざるを得ない企業は辛酸をなめている。
一度下げたら、上げられない
ファーストリテイリングの990円ジーンズや西友の850円ジーンズに圧倒された形のジーンズメイトは'09年3~11月期の最終損益が7億5000万円の赤字。前年同期比で約1億円も赤字幅が拡大した。
「3ケタジーンズの登場で、主力商品である単価1万円ほどのリーバイスやエドウインのブランドジーンズが厳しい。1990円の低価格ジーンズも販売を開始しましたが、売れる本数が変わらないのに、単価が下がったため、売り上げが落ち込みました」(ジーンズメイト・経営企画課)
アパレル業界を担当する証券会社のアナリストが続ける。
「安値競争の煽りを受け、メーカーが潰れたり、他の会社と吸収合併する動きが出てきています。そんな中、誰もが名前を知っている大手ジーンズメーカーが破綻するという噂も流れている。大手ブランドは、一度、価格競争に参加すれば、次に上げるのが難しくなるため、価格競争に参戦できない。みな、『今は正念場』と言い合いながら、不況が回復するまでふんばるしかない状況です」
外食産業では、市場全体の売上高が'03年以来、6年ぶりに前年実績を割り込む見通しだ。特にファミリーレストランはその値下げ戦略が響いて、11カ月連続で前年比マイナス。外食トレンドアナリストの佐藤こうぞう氏が言う。
「180円でモルツを飲ませる居酒屋も出たということですが、生ビールの原価は約180円。すでにギリギリの安値消耗戦に入っています。このままいけば、生き残れるのは体力と資本力のあるところだけで、5割以上の店が潰れるという事態も起こりうる。『価格』ではなく、『価値』を求める戦略に変えていかないと、マーケットが底抜けしてしまうでしょう」
日本百貨店協会によれば、百貨店の売り上げは、21カ月連続で前年同期比割れ。3~8月期の営業利益は髙島屋で63%、大丸・松坂屋を展開するJ・フロントリテイリングで54%も減少した。百貨店業界で安値戦略の先頭を走るJ・フロントリテイリングは、
「売り上げより、お客様に来ていただくということでやっていますが、入店客数はあまり変わらない一方で、価格を下げている分、購買単価が落ちている」(広報IR部)
と言う。大胆な値下げには追従しない松屋も、
「高額品とレディース・メンズの衣料品の売り上げが急激に落ち込んだ。'10年も厳しい状況が続くでしょう」(総務部IR室・広報課)
と、高くても安くても苦境を強いられる業界不況が浮かび上がる。
「少数の勝ち組に対して、多数が追随して価格が下がるというプライスフォロワー現象が起きています。勝ち組は値下げしても平気だが、フォロワーは利幅を削って値下げするので、賃金などのコストカットを余儀無くされる。多数のフォロワーが賃下げを行うことで、家計の購買力は低下、デフレ長期化のリスクが高まっています」(前出・松本氏)
国全体が100円ショップに
需要掘り起こしのため、低価格商品の市場投入に企業は血道を上げる。しかし、価格競争が激化するほど、利益幅は縮少。従業員の賃金の下落を招き、さらに消費者は安価な商品を求め、企業はさらなる値下げで利益幅を圧縮するデフレスパイラルに陥る――2010年、日本経済はそんなシナリオを突き進むのか。
「予兆はある」
と言うのは、化粧品メーカーの元幹部だ。
「実は、ある大手化粧品メーカーが大規模な人件費削減に動いている。正社員で雇っている美容部員を、契約社員に変えようとしているのです。賃金カットを目的とした、実質的な“クビ切り”ですよ」
前出の竹森俊平教授は、こう警告する。
「このままデフレが続けば、倒産や住宅ローン破綻者が増えます。となれば銀行は再び多額の不良債権を抱え、金融危機に陥ることになる。そうなれば、失われた10年の再来です」
第二次大戦の敗戦後、経済復興に勤しむ日本は集中豪雨的な輸出と産業保護で高度成長を成し遂げ、'80年代に「ジャパンアズナンバーワン」と称される経済大国へとのぼりつめた。しかし、バブルが崩壊すると、「失われた10年」に突入。その長期停滞の原因を「マネー敗戦」と喝破した著書は、'90年代も終わる頃、ベストセラーとなった。日本が貯めに貯めたドル建て債権が、米国の為替政策リスクに翻弄されていた現実を活写したのだ。
あれから10年。今度は、自分たちで足を引っ張り合う愚行を繰り広げ、3度目の敗戦 ――デフレ敗戦―― へと足を踏み入れている。
「もう、日本に市場としての魅力は感じない」
外資系証券会社の幹部はそう語る。正確な定義はないが、物価が2年続けて下がるとデフレといわれる。先進国では、日本とアイルランドだけが'09~'10年の2年連続で下落するという。日本では物価下落がもう一年続く公算は高い。
企業は激安商品を作り、消費者はより安いものを求める。そんな日本からまともな企業は撤退を始めている。イタリアの高級ブランド、ヴェルサーチが'09年10月に日本から撤退し、ルイ・ヴィトンが銀座への大型店出店計画を白紙に戻した。前出・化粧品メーカー元幹部も、「化粧品など不況に強いといわれてきた業界の多くが、日本では成熟産業になってきています。各メーカーはもう中国の方しか見ていない」と語る。躍進するアジア各国の喧騒をよそに、日本は埋没し始めている。高級ブランドも、良質なものも消え、国全体が100円ショップのようになり、焦土と化す――そんな危うさが、身近に迫ってきている。
「いま日本は、歴史的な大転換期にいます。この恐慌的状況は、『産業構造の転換が急務』だというシグナルを日本国民に送っていることに、気づかなくてはいけない。『量』から『質』へ、『資源集約』から『知識集約』へ、『モノ』から『ヒト』へという方向で新たな産業世界を作り上げる。そこからしか、新しい成長は始まらないのです」(関西学院大学教授で政府税制調査会委員の神野直彦氏)



