FRIDAY経済の死角

2011年04月09日(土) FRIDAY

反日感情を変えた「女川町の奇跡」
FRIDAY連載『中国的インパクト』より

震災から2週間が経った女川町の光景。佐藤専務を呑み込んだ津波の爪跡が依然として残る〔PHOTO幸多潤平〕

〔取材・文:高山祐介(フリーライター)〕

「津波が来るぞ! 高台に逃げろ・・・!」

 3月11日午後3時過ぎ、宮城県女川町。高さ18mもの大津波が市街地を一気に呑み込んだ—。東日本大震災により、同町では判明しているだけでも、死者と行方不明者を合わせて1100人を超える被害が出た(3月29日現在)。町内の大部分が壊滅し、震災から2週間を経ても電話回線すら復旧していない。

 甚大な被害をもたらした大災害ではあったが、そこから無事に生還した外国人もいる。町内で生ウニの加工を扱う佐藤水産に勤務していた20人の中国人研修生たちだ。中国新華社通信の報道によれば、彼らは震災発生直後、同社専務の佐藤充さんの必死の誘導により高台に避難して、全員が無事だったという。佐藤専務はその後、「妻と子供を探しに行く」と引き返したが、助けた研修生たちの目の前で津波に呑まれ、消息を絶った。

 佐藤水産は1955年に設立された、女川町の海岸線からわずか数百mの距離に位置する中小企業だ。研修生たちを中国から送り出した人材派遣会社「大連国際合作公司(ダーリエングオジーホオゾウゴンスー」の広報担当者は、筆者の電話取材に対して、こう語った。

「佐藤水産は'99年から中国人研修生を受け入れており、我が社にとって"盟友"と呼べる会社です。特に佐藤専務は、日本語の苦手な研修生に"夜なべ"して言葉を教えたり、病気になった研修生のために車を飛ばして薬を買ってきてくれたりと、親身になって世話をしてくれることで評判だった方です。研修生の間では『日本のお父さん』と呼ばれ、慕われていました」

 佐藤専務の懸命の避難誘導により助けられた研修生たちは、震災の1週間後に無事に中国に帰国した。出迎えた家族に、彼への感謝の言葉を繰り返し語ったという。大連公司の担当者は話す。

「地震の数日後、専務の実兄で社長の佐藤仁さんと電話が繋がりましたが、彼の第一声は『お預かりした中国の人たちは無事だ。安心してくれ』でした。津波に呑まれた弟さんのことも、自分の会社のことも話さず、そう言ってくれた。日本人は凄い・・・。思わず涙が出ました。今はただ感謝するばかりです」

 文字どおり命を懸けたこの救出劇が中国国内で大々的に報じられると、震災以来、心無いネットユーザーの間で盛り上がりつつあった日本を嘲笑するような論調は影をひそめ、「日本で最も優しい人」「中国人が永遠に忘れない恩人」など、佐藤専務への感謝と彼の無事を祈る声がネット上に溢れた。

救出された研修生の郝春飛さん(23)。「現地の人々の助けがなければ今の私はない」と語る

 もともと日本における"中国人研修生"は、研修を名目とした低賃金労働が「人材の使い捨てだ」として日中両国で問題視されるなど、ネガティヴに捉えられがちな存在だった。だが、彼ら研修生のうち今回の災害での死亡者は3月26日時点でゼロ。

 宮城県の沿岸地域だけでも600〜700人が働いていたが、受け入れ側の会社が軒並み津波に流される状況下で、研修生の多くが避難に成功した。『ルポ 差別と貧困の外国人労働者』(光文社新書)などの著書があるジャーナリストの安田浩一氏はこう解説する。

「東北地方沿海部で研修生を受け入れているのは、大部分が中小規模の水産加工業者です。薄給・重労働・人手不足の職場で、低コストの労働力として中国人が雇用されているのは事実でしょう。ただ、東北という土地柄のためか、単なる労働力として彼らを見るのではなく『家族の一員』や『よそ様から預かった若者』として遇する人情味ある経営者が多かったと聞きます。それが震災直後の彼らへの適切な避難指示に繋がったのではないでしょうか」

 少なくとも佐藤水産がそうした会社の一つだったのは間違いないだろう。大連公司によれば、九死に一生を得た研修生の全員が日本への再訪を望んでいるという。その中の一人はこう話す。

「僕たちが一緒に会社を立て直す。社長さんと専務さんにもう一度会って、お礼を言う。そのために、再び女川町へ行きたい」

 人々からすべてを奪ったかに見える大地震と大津波。だが、国境を越えて育まれた情愛だけは、決して失われはしない。

たかやま・ゆうすけ
中国のネット社会を中心に現代中国社会への多彩な斬り込みを見せる。別名義での著書も多数。連絡先は yuh.takayama@gmail.com