FRIDAY経済の死角

2010年02月14日(日) FRIDAY

有楽町西武の最期~「セゾン文化」
敗戦の記録
1984年、「感性劇場」のキャッチコピー
を掲げてオープンして26年

東京初進出のダウンタウンを有楽町西武前で撮影('88年12月30日号)  〔PHOTO〕池田賢二

「西武流通グループの総力を結集し、情報発信機能を持った、まったく新しいタイプの店を作っていく。つまり、ここは感性劇場、マインドシアターです」

 1984(昭和59)年10月、朝日新聞社や日劇のあった東京・有楽町の跡地に「有楽町マリオン」がオープンした。西武と阪急という二大デパートが並立する複合商業施設である。冒頭は、セゾングループ代表(当時、82)・堤清二氏が、開店を間近に控えた同年9月12日、東京商工会議所で高らかに宣言したものである。

 「不思議、大好き。」「おいしい生活。」など、'80年代前半、西武百貨店を含むセゾングループは、そのキャッチコピーを書いた糸井重里氏とともに時代の寵児だった。

 有楽町西武がスタートした年、宮崎駿監督の映画『風の谷のナウシカ』が封切られ、マックのパソコンが発売された。日経平均株価が終値で初めて1万円を超え、来る'80年代後半のバブル経済を前祝いするかのように、街は浮き立っていた。そして25年強の歳月が経った―。

マリオンがオープン。松坂慶子や志穂美悦子らがテープカットした 開業前から外壁を囲むように列ができ、昼過ぎには8万人の混雑に

 1月27日、セブン&アイ・ホールディングス(以下、セブン&アイ)が傘下の百貨店事業のうち、西武有楽町店を12月25日に閉店すると発表した。

 '06年6月に百貨店事業会社のミレニアムリテイリング(現そごう・西武)を傘下に入れたセブン&アイが見切りを付けた理由。それはご多分に漏れず販売不振である。

 百貨店事業の'09年3~11月期決算は22億円の営業赤字、有楽町西武に限っても毎年10億円前後の営業赤字が出ていたとしている。

 実はセブン&アイの鈴木敏文会長(77)にとって、西武百貨店という買い物は、社内外から批判の的となる恥部であった。

「鈴木さんは西武の和田繁明元社長(76)と親しく、その仲でそごう・西武を傘下に入れた。その際、野村プリンシパル・ファイナンスが所有していた西武百貨店の5000万株を1311億円で買い取っています。『鈴木さんは和田さんに乗せられただけ』との陰口は、幹部から公然と出ています」
(西武百貨店関係者)

 だが、有楽町西武が一時代の文化の象徴だったことも事実だ。コラムニストの天野祐吉氏は、当時の空気を説明する。

「当時、豊かな生活とは豪華なステーキを頬張ることを意味し、モノの価値は値段の順に縦並びでした。しかし西武と糸井さんは、その日の気分によって、豪華なものに限らず『おいしい』ものを選び取っていこうよ、とメッセージを発信した。これは、消費スタイルを思いきり変えてみようという提案です。その提案のもとに成立したのがセゾン文化でした」

 堤氏にとって、有楽町に店を構えることは悲願でもあった。有楽町西武が開店する2年前、西武の母店である池袋店が年間売り上げ日本一を獲得している。

 それでも、百貨店業界で「一流」の評価は得られなかった。創業が江戸にまでさかのぼる老舗がひしめく銀座で勝負してこそ、高級百貨店と見られていたのだ。計画当初、堤氏は「銀座西武」として出店しようとしたが、地元商店会は、堤氏の意向をピシャリとはねつけた。

「店名は正確にしていただきたい。日劇があった場所は千代田区有楽町。銀座(中央区)とは区も違えば町の名前も違う」

 地元からは田舎企業と低く見られたスタートであったが、堤氏にはオープン前から「モノ(物品)からコト(情報)へ」というイメージがあった。有楽町西武は8階にグループ企業が出店する「セゾンスクエア」を設け、各種ローンや証券、別荘やチケット販売など、店頭での物品販売に止まらないコト(情報)を売った。

 それにはやむを得ない事情もあった。銀座・有楽町地区の百貨店の中で西武の売り場面積は松坂屋の半分、下から2番目という狭さだった。堤氏は「カウンターの後ろには、もっとでっかい売り場がある」とハッパをかけた。それは外商に励めというメッセージにもつながった。

「堤氏の方針で、西武は大きな利益が見込める絵画ビジネスにのめり込んでいきました。その結果、巨額の絵画取引に関与した別店舗の西武の元課長がイトマン事件の容疑者として指名手配されたのです。バブルの最中、セゾングループ全体で1兆円以上の借入金がありましたが、堤氏は『借金も財産のうち』と公言して憚らなかった」(セゾングループ関係者)

 堤氏のワンマン経営で覆い隠されてきた借金問題など負の側面は表出し、'91年、堤氏は一線から退かされた。

 後継は、堤氏と対立しグループ会社の社長に「飛ばされていた」和田繁明元常務である。それまでの経営を徹底的に批判する和田氏は、若い女性をターゲットにファッションに特化した物販に力を入れた。「フツーの会社」であることを目指したのだ。

「あいつは、俺のやったことをすべて否定する」

 堤氏は側近にこう嘆いたという。だが、和田氏の改革でさえ、バブル崩壊後、「失われた10年」と呼ばれる長期不況の真っ只中にあって、遅きに失していた。

人の流れは、確実にユニクロやH&Mといった低価格・大量販売の店へと向かいつつある。〔PHOTO〕濱崎慎治

「大手百貨店は、ブランド人気が高まれば店舗にショップを入れ、それがダメになれば今度はユニクロを入れる。そんなことを繰り返して、どこも画一的になりました。経営統合する動きが顕著ですが、スケールメリットで業績が上向くわけではない」(経営評論家・緒方知行氏)

 池袋や新宿といったターミナル駅もない有楽町西武に勝算はなかった。そして、百貨店はスーパーやコンビニを営むセブン&アイの手に落ちたのである。

「セブンの鈴木さんにとって、西武であろうが、スーパーと同じ。3年前からどの店を閉鎖するか検討を重ねていました。有楽町西武も名前が挙がっていましたが、西武出身の役員が『もう少しだけ様子をみてください』と懇願してきたのです」

 セブン&アイの関係者がそう語る。

 思えば、共産党にのめり込んだ結果、父である西武グループの総帥・堤康次郎氏に勘当された堤氏は、経営者としては異端であった。セゾン傘下のパルコ出版が発行したサブカルチャー誌『ビックリハウス』で編集長を務めたエッセイストの高橋章子氏は、こう振り返る。

「清二氏率いるセゾンは、既存の価値や権力に立ち向かう捨て身なところがあって、それが発信力にもつながっていた。誰もやらないようなことをやって業界にケンカを売ることが好きな会社でした」

 有楽町西武の閉店は、'80年代に確かにあった「熱」が消えゆくことを示している。そごう・西武の広報室に今後について聞くと、こう回答した。

「今後、有楽町西武で展開していた『情報発信型百貨店』の役割は、池袋西武が受け継ぎ、強化していく方針です。衣料品については、素材をセブン&アイ・グループで一括・大量仕入れしてコストを下げ、仕上げの段階で、スーパーや百貨店ごとの違いを出していきます」

 いまやセゾングループは消滅している。本誌は堤氏から話を聞こうとしたが、

「ビジネス界から引退していますので、コメントを控えさせていただきます」

 と答えるのみだった―。