田原総一朗「戦後レジームの正体」

田中角栄の挑戦と挫折
〜「日本列島改造」と「小選挙区導入」の野心

「戦後レジームの正体」第9回(前編)

2016年02月27日(土) 田原 総一朗
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田中角栄元首相、1973年撮影〔photo〕gettyimages

田中角栄首相の誕生

佐藤栄作首相の後継を狙って、1972年7月5日の自民党大会でいわゆる「三角大福」、三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫の4人が立候補し、「角福」の上位2人の決選投票で、田中282票、福田190票と田中角栄が圧勝した。

吉田茂から佐藤までの首相は、石橋湛山以外、いずれも帝国大学卒業で、鳩山一郎・片山哲以外は高級官僚出身であったのに対して、田中は小学校卒という学歴だったが、抜群の頭脳と行政、法律上の知識、そして党内外の人心収攬、官僚の操縦に長けていて、「コンピュータ付きブルドーザー」と称されていた。また「庶民宰相」として、首相になった直後の支持率は62%と、戦後最高であった。

そして田中は総裁選の直前に『日本列島改造論』(日刊工業新聞社)を出版してベストセラーとなっていたが、田中のコンピュータ的発想や政策を解く鍵は、実は彼の幹事長時代の体験にある。

67年4月15日、東京都の知事選挙で社会党、共産党推薦の美濃部亮吉が、自民、民社推薦の松下正寿を破って当選した。東京都知事の座を社・共の革新派が奪取したのは、もちろん史上初めてである。美濃部は戦前、人民戦線事件で逮捕されたという「勲章」を持ったマルクス経済学者であった。

実は、京都府では、社・共の推薦する蜷川虎三が50年代から連続当選していて、68年には、返還前の沖縄で、やはり革新の推す屋良朝苗(ちょうびょう)が琉球政府主席に当選し、71年には大阪でも社共推薦の黒田了一が知事に当選した。

そして70年代半ばには、日本の人口の40%以上が革新自治体の下で生活することになった。それより前、美濃部知事誕生直後に田中角栄は、「中央公論」(67年6月号)に「自民党の反省」という危機意識に満ちた論文を発表している。

この年の4月に行われた道府県議選で、自民党の得票率は戦後初めて50%を割り、合計で143議席も減らした。この年には、社会党の推す飛鳥田一雄が横浜市長に、中鳥(ちゅうま)馨が大阪市長にそれぞれ再選を果たしてもいる。

つまり太平洋ベルト地帯の都市部の住民が、明らかに自民党政治に強い拒絶反応を示し始めたのだ。

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