わき道をゆく~魚住昭の誌上デモ
2016年01月30日(土) 魚住 昭

軍政のキングメーカー・山県有朋の正体~緊迫する「情報戦」を史実から追う

絶対的な権力で政界を操った男

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「軍国の父」と呼ばれた男、山県有朋[Photo:wikipediaより]

鴎外と乃木がともに味わった暗い影

年末、『日本の参謀本部』(大江志乃夫著・中公新書・1985年刊)という本を読んだ。

著者の大江さんは7年前に亡くなられたが、日本の近現代史、ことに軍事史の研究で世に知られた学者だった。私も20年前に一度、お宅にお邪魔して教えを乞うたことがある。

その大江さんの本を読み進むうち、軍神・乃木希典と、文豪・森鴎外(陸軍軍医総監でもあった)の秘められた過去に出くわしてドキリとした。

乃木と鴎外の間には長くて深い交流があった。乃木は明治天皇の大葬の日に、妻とともに殉死した。この事件に衝撃を受けた鴎外は『興津弥五右衛門の遺書』を一気に書きあげた。それを契機に、鴎外は歴史小説・史伝の執筆に向かう。

というのが文学史の常識なのだが、私が驚いたのは、乃木と鴎外の人生に暗い影を落としている山県有朋の存在だった。ご承知のように、山県は伊藤博文亡き後の軍国日本の独裁的権力者である。大江さんはまずこう語っている。

〈もともと山県が陸軍の独裁者としての地位をきずきあげ、さらに国政を牛耳る軍人政治家としての地歩をかため、生涯その地位を保持することができたのは、情報政治に負うところが大きい。山県は近代日本きっての情報政治家であった〉

大江さんによると、山県の庇護のもとに軍人として栄達の道を歩いた人物の多くは、山県の情報政治の手足として働いた経験を持っている。のちに武士道の典型として神格化された乃木希典すら例外ではなかった。

長州藩の練兵教官だった乃木は廃藩置県(明治4年)後に上京して陸軍少佐になった。そして明治7年、数え年26歳のとき、山県陸軍卿の伝令使(=秘書官)に任じられた。山県が乃木を伝令使に登用した主な理由は、乃木が吉田松陰の縁戚にあたることだったという。

松陰門下からは山県や伊藤博文ら明治政府を担う人材が輩出した。乃木はその松陰の縁戚というだけでなく、松陰の叔父で、松下村塾の創立者でもある玉木文之進の直弟子だった。しかも乃木の弟・真人は、玉木の養子になって玉木姓を継いだ。つまり乃木は松陰人脈のど真ん中に位置していたと言っていい。

それを念頭におきながら大江さんの記述を追ってみよう。

〈(山県にとって)松下村塾のつては貴重な情報源であった。伝令使時代の乃木は、酒と女に遊びふける日々をすごした。乃木にとってはたのしい遊興の毎日であったが、それが許されたのも伝令使の職にあったればこそである。/乃木が翌年十二月に熊本鎮台歩兵第十四連隊長心得(小倉)に赴任したのも、情報将校の任務を負わされてのことであった〉

情報将校とは、現代の言葉に置き換えればスパイだろう。では、乃木が負わされた任務の具体的な中身は何だったのか?

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