現代ノンフィクション
2015年01月30日(金)

『ふたつの震災』 阪神・淡路の20年から
【第5回】被災地に「しあわせ運ぶ」歌の物語(中編)

取材・文/西岡研介

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阪神・淡路大震災で当時1歳半だった双子の長男・将君を失くした、たかいちづさんと、『しあわせ運べるように』を作詞作曲した小学校教諭、臼井真さんが知り合ったのは震災から9年が過ぎた2004年。その年の1月17日に行われた兵庫県の追悼のつどいで、初めてこの歌を生で聴き、号泣する夫の姿に心を動かされたたかいさんが、臼井さんに手紙を送ったのがきっかけとなったことは前回述べた。

これを機に、2人の交流はその後10年にわたって続くのだが、もちろんこの間も夫妻は将君を失った悲しみを抱え続けて生きてきた。と同時に、たかいさんにとっては、奇跡的に生き延びた双子の長女ゆうさんに自分の思いをどう伝えていくか、試行錯誤を続けた10年でもあった。

「どっちが死んだらよかった?」

震災当時1歳半だったゆうさんに双子の兄の記憶はなく、また、人の「死」というものを理解するには幼すぎた。写真になった兄と一緒に生活し、成長していくうちに、「死」がどんなものなのか徐々には分かってきた。しかし、兄を喪ったという悲しみは感じなかったし、将君を失くした両親の悲しみも理解できなかった。ただ、彼女は彼女で、父母とは別の悲しみを抱えていた。

将君を亡くしてから毎日のように泣き続ける母親。家族の前では必死に堪え、出勤途中の車の中で一人泣いていたらしい父親。そんな両親の姿を見るたび、幼いゆうさんは彼らを慰めるような仕草や、元気づけるような言葉をかけていたという。しかしそれらの仕草や言葉は、将君を亡くした悲しみにとらわれ続ける両親に感じていた寂しさの裏返しだったのかもしれない。

「しょうくんとゆうちゃん、どっちが死んだらよかった?」

ゆうさんが小学校1年生の時、彼女からこう尋ねられたたかいさんは、「2人とも同じくらい死んでほしくなかった」と答えるのが精いっぱいだった。確かに将君を失った直後は彼のことばかりを想い、ゆうさんの成長を素直に喜べない自分がいた。しかし、もうその頃には、ゆうさんが生きていてくれたことに感謝し、彼女と一緒に過ごせる日々の大切さに気づいていた、はずだった。

けれども、ゆうさんの目には、まだまだ悲しみの淵に沈む自分の姿が映っていたのだろう。幼い彼女がこれまで、どれほどの寂しさと不安を抱えてきたかと思うと、胸が締めつけられる思いがした。

自分がどれだけ、ゆうさんのことを大切に思っているかを娘に分かって欲しい一心で、彼女が小学校3年生の秋(03年11月)に『ゆうへ 生きていてくれて、ありがとう。』という本を出した。しかし、当時のゆうさんは母の悲しみを想像し、「1ページ読んだだけで涙が出てくる」と、それ以上読み進めることができなかったという。

ただ、小学4年生になった04年2月、校外学習で神戸にある防災研究と学習の施設「人と防災未来センター」を見学し、初めて震災被害の大きさを実感したゆうさんは帰宅後、「(将君が亡くなって)初めて悲しいと思った」と話したという。たかいさんは娘の成長と、将君への思いが嬉しかったが、ゆうさんが中学生になって反抗期を迎えると、親子喧嘩の最中に「将君よりも私が死んだ方がよかった?」と問われ、再びショックを受けた。

振り返れば、親子でそんなことを繰り返しながら生きてきた20年だった。

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