現代ノンフィクション
2015年01月14日(水)

『ふたつの震災』 阪神・淡路の20年から
【第1回】東北と家族へ宛てた父の卒業論文

取材・文/松本創

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東日本大震災からひと月経たない2011年4月8日、日本心理臨床学会のサイトに一編の手記が掲載された。『被災地のみなさまへ』と題した一文は、遺族へ向けてこう語りかけていた(→PDFはこちら)。

〈おそらく現在のご心境としては、残念さと孤独感によって断腸の思いだとお察しします。私も今でこそこうして皆様にお話出来ますが、当時はとても人と話をしたり(する気になれず※筆者補足)、他人からのアドバイス等にも無関心でいました。ボランティアの皆様の援助さえも気に障ったことも、記憶しています。そうした心情は仕方なく、周りの人には許してもらいましょう〉

〈今現在で、自分の頑張れる期限を決めて(一週間が限度とか、一ケ月、一年、十年等……)とりあえずそこまで頑張って、またその時点で将来のことや、頑張る期限の延長とかを考えて頂いたら良いかと思います。今の心境で見えない将来の為に頑張り通すと云うのは、とても難しく無理だと思います〉

筆者は藤本忠雄さん(65)。1995年1月17日、46歳の時に阪神・淡路大震災で妻を亡くし、中学生だった2人の息子を男手で育ててきた。小さな会社を経営していたが60歳で引退し、当時は神戸山手大学で心理学を専攻する社会人大学生2年目だった。学校関係者を通じて寄稿の依頼を受けたが、ずいぶん迷った。それまで、自分が震災遺族であることを公言するのを避けてきたからだ。

メディアの取材やネットでの発信はもちろん、遺族のつどいや追悼行事に出ることも、ボランティア支援や心のケアなどの社会的サポートを受けることも一切なかった。反感を持っていた、と言ってもいい。「そんなことで何が救われる」と。

悩んだ末に綴ったメッセージには、そうした藤本さんの震災体験が反映されている。だから、通り一遍の励ましや安易な同情・共感ではなく、「絆」や「つながり」を押し付けることもなく、東北の被災地に響いた。その反響がまた、藤本さんに自分の来た道を振り返らせ、さらには進む道も決めることになる。

昨秋、私はあるきっかけで藤本さんと出会った。手記掲載から3年半が経っていた。そして、彼がこれまでほとんど語ってこなかった阪神・淡路大震災からの20年を聞かせてもらった。

不信を生んだ小さな心の引っ掛かり

阪神・淡路の震災当時、藤本さんが住んでいたのは兵庫県芦屋市三条南町。JR芦屋駅から西へ10分ほど歩いた神戸市東灘区との市境に建つ、古い2階建て木造アパートだった。ニュース映像で繰り返し流れた阪神高速道路の倒壊現場から1キロと離れておらず、あたり一帯の家屋が軒並み倒れた。

1階の一室で寝ていた藤本さんは、妻の昭子さん(当時47歳)、中学2、3年だった長男と次男の一家4人で生き埋めになった。暗闇の中で名前を呼ぶと、昭子さんだけ返事がなかった。

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