今回の人物 石原莞爾 vol.4
列車に乗り大連から瀋陽へ。荒廃していた満州帝国の中心地

vol.3 「それは、理想国家だったか? 満州国を思い、大連の街を歩く」はこちらをご覧ください。

 大連駅の正面、右手の方に自動車は停まった。

 駅正面の人混みに恐怖を感じていたのだが、そちらの入り口にはほとんど人影がなかった。

 「特別待合室」と記された額が掲げられた部屋は、天井の高さが四メートルほどもある巨きさであったが、私と文藝春秋『諸君!』のI氏と、ガイドの孝さんしかいなかった。

 この部屋から、直接ホームに出ると「軟座」の列車が待っている。「軟座」とは、日本で云えばグリーン車である。

 重油の臭いを振りまきながら、巨大なディーゼル機関車が入線してくる。機関車と客車は、緑色に塗られ、車窓の下辺りにクリーム色のストライプが走っている。

 一両ずつ乗車口に女性の車掌さんが立っている。制服は、ほぼ、人民服と同じデザインである。

 座席は、事前指定ではない。乗り込む時に彼女たちが国旗を象ったバッジのようなものを人数分渡してくれる、という仕組みである。

 発車してしばらくすると、車掌さんが大きな薬罐をさげて歩いてくる。

 乗客たちは、蓋付きの湯飲みをさしだして、湯を注いで貰う。

 窓側の小卓に、向日葵の種や、鶏の足などをだして、談笑している。なんだか楽しそうだ。

 金州辺りまでは、林檎の木がなだらかな丘を覆っている。

張作霖・学良邸奉天(現・瀋陽)に遺る。この自宅の応接間で、張学良による楊宇霆らの粛清が行われた

 それを越えると、全く舗装のない土の道が、線路と並行して走っている。

 特急電車が通過する駅には、ホームに駅員が整列している。

 市街を離れると、看板や立札などを見ることがない。

 まったく文字の、情報のない風景。

 土や木や草と、素手で対峙している国の、人々の事を考えた。みずからの思慮の範囲を超えていることが、時間を経ることなく識った。

 鞍山を過ぎると線路脇にポプラ並木が続く。コウノトリの巣が、一つ、二つ・・・。

 「あと十年間、この発展が続けば、中国の貧乏時代は終わります」

 孝さんは問わず語りに述べた。

 九時間半かけて、列車は瀋陽(奉天)に到着した。所持していた南満州鉄道時代の時刻表と照らしあわせると、一時間近く長くかかっている。

満州事変に見るクーデタの「本質」とは

 瀋陽は、荒廃していた。駅前広場には、夕刻の影の下、残雪と塵芥が積もっている。

 失業者が市内だけで百万人いる、と孝さんが教えてくれた。孝さんの家は、瀋陽にあって、スルーガイドを務めるために、大連まで出てきてくれたのだ。

 強風の下、道の両側を色とりどりのビニール袋が飛んでいく。

 旧満州帝国の重工業設備をうけついだ東北部は、文化大革命期までは中国経済を牽引してきたけれど、改革開放がはじまると、国外からの投資が集中した沿岸部に遅れをとるようになった。設備の老朽化と、手厚い給与、福祉が足かせとなり、自縄自縛に陥っていたのである。

 到着したホテルは、国際的水準に達した、立派な宿であったけれど、昼に二時間ほど断水し、復旧すると小一時間は赤い水が出るのだった。

 翌朝、故宮をはじめとする市内を歩いた。瀋陽は、清王朝が北京を陥落させる以前の首都で盛京と呼ばれていた。北京が行政の中心となった後、奉天と改称されたが、清朝発足の地として特権的な地位を与えられてきた。

 前回、記したように、ロシアにより南満州鉄道が敷設されると、奉天は東北部の経済、交通の中心として台頭し、日露戦争後、ロシアの利権はすべて日本に譲渡された。

 事態が急転したのは、蒋介石による北伐がはじまってからだった。

 辛亥革命により、清朝の命運は尽きたが、中華民国の内情は、袁世凱や張作霖、馮国璋、郭松齢などの軍閥が割拠しているにすぎず、統一国家としての態をなしていなかった。

 孫文は、強力な軍隊を持つ事によって軍事的に統一しなければ中国を近代国家にする事は出来ないと考え、国共合作を行い、ソビエトから軍事顧問を招いた。

 孫文の死後、蒋介石は二度にわたる北伐により華中をほぼ制圧し、北京に割拠していた張作霖は、故地、奉天へと退却した。その到着直前に、関東軍は張を爆殺したのである。中国全般の情勢の変化の下、満州での利権を維持するため、扱いにくくなってきた張作霖を排除しようとしたのだ。

 その企図は完全に裏切られた。

 麻薬中毒の上、漁色に耽っていた張学良は、予期に反して、日本の士官学校出身で、実質的に軍の実権を握っていた楊宇霆を自宅で射殺、その一派を粛清した後に、蒋介石に忠誠を誓い、日本への対抗姿勢をとったのである。

 この危機を乗り越えるために満州に呼ばれたのが、石原莞爾であり、計画されたのが満州事変であった。

 日本側は、張学良側の実に二十分の一程度の兵力しか持たなかったのに、ほぼ数ヵ月で満州の主要地域を制圧してしまった。石原が「天才」と謳われる所以である。

 けれども、今日から見た時、満州事変は、戦争というよりはクーデタと捉えた方が理解しやすいように思われる。

 石原は、軍事攻撃と同時に、金融、交通、通信、流通などを閉鎖することで、張の軍隊を機能不全にしてしまったのだ。大兵力をもっていても、資金も情報も移動手段もなければ、何もできない。

 二十世紀でもっとも奇怪なジャーナリストとして高名なクルツィオ・マラパルテは、その主著『クーデターの技術』のなかで、「機関銃をもって国会に突撃するようなクーデターは失敗する」と断言している。

 マラパルテは、ムッソリーニのローマ行軍や、トロツキーによる十月革命を分析し、水道、電力といったライフライン、情報、金融を制圧する事がクーデタの本質だと看破しているのだ。石原の作戦はそれと符合するものだ。

 マラパルテは、ファシストでありながら党の幹部を恐喝して逮捕され、釈放後はもっとも優れた第二次世界大戦ルポとされる『壊れたヨーロッパ』を執筆、戦後、共産党員となり、臨終の床で党と決別、カソリック教徒として死んだ。

以降 vol.5 へ。

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