日高屋 神田正会長 貧乏が生んだ"逆転の発想" 転職15回、5坪のラーメン店から始めた青年が売上高227億円の大チェーンを築いた

2010年07月23日(金) FRIDAY
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 正社員になって喜んだ母親は、辞めたことを知って、たいそう悲しんだという。「当時の私は、カネがなくなると、家にも帰らず、野宿して過ごすような風来坊でした」と神田氏。そんな人生が転機を迎えるのは '68年、27歳の時だ。パチプロとして生計を立てていた神田氏は、知人の頼みで岩槻市のラーメン店の雇われ店主になったのだ。

'69年頃、岩槻の店舗を引き継いだ神田氏。'73年に創業する「来来軒」の店名をこの時から使って営業していた

「面白かったんですよ。ラーメンを作るのは難しくないし、売れた分は現金になってすぐに入ってくる。貧乏だったので、現金に触れることやカネ儲けの仕組みを知ることが楽しかったんですよ」

 その後、店を譲りうけることになった神田氏は、経営にのめり込み、店の売り上げを拡大させる。だが、次第に"天狗"になった。

 スナック経営に手を出し、その失敗が元で1年後にはラーメン店を潰してしまうのだ。もっとも、32歳になる '73年には、現在の「日高屋」につながる「来来軒」を大宮駅前に開店する。

 偶然、家賃・月2万円という破格の安さの5坪の物件に出会い「現金を手にできる感動」が甦ったことから、ラーメン店としての再スタートを切ることにしたのだ。

「チェーン展開を考え始めるのはこの頃から。当時、ラーメン店といえば、3~4年修業して、自分の店を持つのが普通でした。ただ、それでは、数店舗の経営が限界。客よりも、自分のことだけを考えて、行き詰まることにもなる。それで実弟(現取締役の町田功氏)と義弟(現社長の高橋均氏)を口説いて、3人で共同経営する道を選んだんです」

 このような貧乏と失敗の経験が、当時としては珍しいラーメンチェーンを生み出すきっかけになったのだ。

 その後、神田氏は、心を入れ替えたように、ラーメン店経営に打ち込む。 '78年には組織を法人化し、 '86年には原材料を加工して配送するための工場を作った。大量生産によって低価格を実現するためだ。

 また、 '93年には都内1号店を赤羽に出店し、 '99年には株式も公開した。そうした成長の原動力になったのが、時代を先読みする「逆転の発想」経営だった。

麺や餃子は埼玉県の行田工場で一次加工されて店舗に配送される。調理と盛りつけが店舗スタッフの仕事だ 〔PHOTO〕船元康子(以下同)

「 '70~ '80年代の一般的なチェーンは、郊外に出店する大型店舗が主流でした。経済成長のなかで、車社会が到来していたことから、土日のファミリー層向けに、幅広いメニューを提供していったのです。しかし、私は逆に、駅前一等地への出店にこだわりました。お客さんは、平日に外食する都会のサラリーマンだと思ったからです」

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