今回の人物 石原莞爾 vol.2
西山農場に賭けた石原最後の夢。鳥海山の麓にその墓を訪ねて

vol.1 「山形県酒田市光丘文庫へ。 大川周明の資料に目を引かれた」はこちらをご覧ください。

 酒田からほぼ真北に、十七キロほど進んだところ、月光川が日本海へと注ぐ河口のすぐ近くに、羽越本線の吹浦駅がある。

 その日は晴れていて、雪を頂く鳥海山の稜線が絵のようにくっきりと見えた。

 吹浦駅から車で五分ほど走ったところに、かつて西山農場と呼ばれた、開拓コロニーがあった。

 昭和二十一年十月から、二十四年八月十五日に没するまで、石原莞爾は西山農場で暮らしている。

 参謀本部を追われて以来、東條英機に代表される陸軍主流派を批判し続けた石原は、昭和十六年に京都の第十六師団の師団長を最後に退役を強いられた。立命館大学の教授に就任する事になったが、この話も軍部の圧力により潰れ、以後終戦まで、故郷鶴岡の市内、近郊を転々として暮らした。

石原の墓鳥海山の麓、山形県飽海郡遊佐町にある。現在も石原を偲ぶ人たちが花を手向ける

 と云っても、けして石原は隠遁していたわけではない。東亜連盟の指導者として、東條らの戦略を批判し、対米戦争後の世界秩序を、そして新しい社会と文明を望見していたのである。

 終戦後、東久邇宮稔彦王から、閣僚として招かれたが、主に健康の問題により辞退した。

 その代わりに、石原がその生命の最後の雫を注いだのが、西山農場だったのである。西山農場で石原は、世界最終戦争後の人類文明の姿を具現化しようとしたのだった。原爆の登場により、石原は最早「戦争」は出来ないと考え、戦争なき時代の文明を探求したのである。

 その試みを現実のものとしたのが桐谷誠という人物である。

 誠の父、桐谷誠一は千葉の出身だったが、鶴岡でバス会社を興し、成功者の列に加わった。

 息子の誠は、一橋大学を卒業し、理研に勤務した後に、軍に入った。

 敗戦後、帰省した誠は石原に出会って強い人格的影響を受けた。「都市解体、農工一体、簡素生活」という石原の理想を実現させるため、吹浦から酒田、鶴岡に至るバスの路線を売り払い、約百五十町歩の台地を提供したのである。

若き大山倍達も農場で働いていた

 桐谷誠の未亡人敏子さんに、案内をしていただいた。敏子さんは、石原が兄事していた農業の専門家、池本喜三夫の姪で、石原の媒酌により桐谷誠の妻となったのである。

 お目にかかった時、敏子さんはお元気だったが、目が不自由であった。葡萄にかける農薬を浴びてしまったのである。それでも家の裏手から、石原の墓まで、ロープの手すりを張って貰い、毎日「将軍」―と、敏子さんはおっしゃった―の墓に参っている。

 石原の墓は、「ドイツに似ている」と、自ら選んだ松林のなかにある。平べったく円錐状に盛られた土の上に石柱を建ててある。もとは木製だったのだが、同志たちの墓苑を整備するに際して建て直した。遺骨の改葬は、東亜連盟の曹寧柱が手ずから行った。

 その墓に、敏子さんをして、毎日、参らせるだけの輝きを、石原莞爾は持っていたのだろう。

 石原は、細やかな気遣いをしたという。敏子さんに、何かを頼むのにも、妻の"てい"が直接敏子さんに語る事を禁じ、必ず桐谷誠を通して頼むように命じたという。自ら、一度、離婚を経験している石原は、夫婦の機微については、かなり神経質だったのである。

「菩薩のような人でしたよ。けして声をあららげない優しい人で。いつも滑稽な話、冗談ばかり、おっしゃっていました」

 農業と工業の一致をめざした石原は、農地を開墾するとともに、石川島芝浦の土光敏夫に依頼して、製塩プラントを設計、施工してもらった。はじめは、上手く動いたが一年ほどで塩害のために故障してしまったという。

 農場経営も容易ではなかった。

 元は松林と桑畑であった土地を、開墾した。牛と馬が一頭ずつしか居らず、ほぼ総ての作業を人手で行わなければならなかった。

 土地は痩せていた。芋や西瓜、せいぜい麦しか穫れず、飢餓の淵を彷徨う態の暮らしだったという。

 はじめは六十人ほどいたが、だんだんと脱落し、減少していった。特に石原が没した後は、がくんと減った。人手もなくなって、作物はいよいよ出来ず、後に参議院議員になった武田邦太郎たちとドン底の生活を送ったという。

 それでも農場の同志たちは、共同生活の本質を探究すべく、自らの子弟をイスラエルのキブツに送りこんだ。

   ∴

 だが、特筆すべきは、農場の顔ぶれのなかに、敗戦後であったにもかかわらず、朝鮮人や中国人も含まれていた、という事である。

 これは、石原莞爾が誇ってよい事だろう。

 前述した曹氏が八十七歳の時、新高輪プリンスホテルで、二時間ほど話を聴いた事がある。光州で独立運動に参加し、マルクス主義者になった曹青年は、来日して立命館大学に入学した。河上肇を尊敬し、演説会をたびたび企画して、左翼シンパの拡大に努めたが、その河上が逮捕された後、転向してしまったため、ガッカリしてしまった。

 それで、当時、舞鶴要塞司令官を務めていた石原を訪ねたという。

「思想はいいのに、なぜ、敗北してしまうのか。それが知りたかった。会ったら、いきなり朝鮮は自治政府にするべきだ、と云う。驚いたし、軍人がこんな事を云うのはおかしいと思った。信じませんでしたよ。それでも、石原の講演にはいつも行った。極右や軍部に弾圧されても意見を変えなかった。それで信頼したのです。
  西山には朝鮮の人間が何人もいた。私の空手の弟子だった大山倍達もいたし、朴烈も来ましたよ」

 朴烈とは、大正末、金子文子とともに、大逆を企てたとして逮捕されたアナキストである。戦後、ナショナリストになった。

 大山倍達の、最も権威ある評伝とされている小島一志、塚本佳子の『大山倍達正伝』は、酒田で開かれた極東国際軍事裁判の酒田臨時法廷に石原が出廷した際「曹寧柱は大山を引き連れて同法廷に駆け付け、証人として召喚された石原の発言を記録した。そして石原を乗せたリヤカーを引いた青年の一人が大山倍達であった」と記述している。

以降 vol.3 へ。

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