雑誌
290円ラーメンの真実 幸楽苑 新井田傳社長が語る「苦情をカネに変える法」
従業員3人の中華料理店が年商356億円、
東証1部上場企業に成長
福島県郡山市の本社で取材に応じる新井田社長。「国内1000店舗目指して出店攻勢をかける」と意気込む

「値段の高いラーメンを売るという発想はもともとないんです。高くても、ウマくないものはウマくない。だったら、安くて、毎日飽きずに食べられるほうがいいでしょう」

 まくしたてるようにそう持論を披露するのは"290円ラーメン"を国内426店舗で展開する幸楽苑(こうらくえん)の新井田 傳(にいだ つたえ)社長(66歳)だ。幸楽苑と言えば、黒塗りの店舗に、「昭和二十九年創業 中華そば二九〇円」とデカデカと書かれた白い看板で知られるラーメンチェーン。

 その幸楽苑、冒頭のコメントに見られるような低価格路線を武器に4期連続の増収増益を続け、'10年3月期決算で売上高356億円を叩き出すなど、成長を続けている。

 だが、そんな同社も、看板商品となる290円ラーメンを売り出した'06年当時は、クレームの嵐に見舞われていたという。クレームは多い時で月600件超。例えば、「注文を取りに来ない」「店長が店にいない」「昨日と味が違う」「マズい」など、あらゆる"苦情"が寄せられたのだ。

幸楽苑のメニュー。ラーメンは中太縮れ麺と、豚ガラ・鳥ガラ、魚介だし、野菜だしで取るトリプルスープ

「当時は、マクドナルドが低価格バーガーを発売して、第一次デフレ競争とも言える時期でした。当社もその波に乗って、390円のラーメンを290円に値下げしたのです。
  ただ、これが"売れすぎ"てしまった。利益率は下がり続け、赤字寸前に。一方、月70店というハイペースの新規出店を続けたので、人手も不足してしまった。その結果、オペレーションが雑になり、作る人によって味が違うというひどい状態に陥ったんです」

 まさに「安かろう悪かろう」を地で行ってしまったのだ。20歳そこそこで従業員3人の中華料理店を継ぎ、東証1部上場のラーメンチェーンにまで成長させた新井田社長。そんな同氏の"290円ラーメン道"を探るうえで外せないキーワードがクレームだ。新井田氏の"クレーム対処人生"に迫った。

「店名を変えちまえ!」

 そもそも、新井田社長が店を継ぐことを決意した背景には、客からの"クレーム"があった。

「味よし食堂」の店内でスタッフに囲まれる新井田社長の父で、創業者の司氏(前列中央)

 幸楽苑の原点は、'54年に新井田氏の父親が福島県会津若松市に創業した「味よし食堂」だ。高校卒業後、大学受験のために自宅で浪人生活を送っていた新井田氏は「肩身が狭かった」ことから、味よし食堂の出前を手伝うことにした。

 だが、出前に行くと、客から「来るのが遅い。味よしなんて名前、変えちまえ! 」とドヤされることが珍しくなかった。配達が遅れ、麺がノビてしまい、味が悪くなっていたのだ。

 配達が遅れる原因は、人手不足だ。当時64歳になる父親が、ほぼ一人で中華鍋を振っていたが、さすがにキビキビとはいかず、出前が遅れてしまうのだった。

「苦情を受けていることすら知るヒマもなく、もくもくと働いている父が小さく見え始めた。自分が大学に行けば、70歳近くまで面倒をかけることになる。逆に、自分が店を継げば、人手不足を補うことにもなるので、客からの苦情も減るだろうと考えたんです」

 店を継ぐことを決めた新井田氏は、進学を断念。上京して服部栄養専門学校に通うかたわら、中華料理店でアルバイトして"修業"を積んだ。3店目の修業先が、後に幸楽苑の名前を譲り受けることになる四谷の「幸楽飯店」だった。

東京での約3年間の修業を終え、21歳で会津若松市の「味よし食堂」を継いだ新井田社長(左)

 上京から3年後の'67年、会津若松市に戻って店を任された新井田氏は、店売り中心の店舗づくりを進めた。

 店名を「幸楽苑」に変え、客寄せとして当時珍しかった水冷式クーラーを導入すると、すぐに人気店となった。「出前に頼らなくても、店売りで商売が成り立つことを実感して嬉しかった」という。

 出前に出て、ドヤされることもなくなった。

 幸楽苑の味や店舗形態の土台を作るうえでは、付きあいのある人々の意見に耳を傾けた。'75年のことだ。

 当時、札幌ラーメンやカレー店、出前専門の弁当店などに進出し、会津地方で業態の違うチェーンを6店舗構えるまでになっていたが、利益は頭打ちになっていた。そんな時、チェーン展開のノウハウと理論を学ぶ経営研究団体に参加して、マクドナルドの創業者レイ・クロックの方法論を知ることになる。

「レイ・クロックは、材料を工場でまとめて加工し、同じ品質、味の商品を各店舗に配る仕組みで成功を収めた。逆に、幸楽苑の利益が頭打ちになったのは、各店の業態が違うため、仕入れも調理もそれぞれの店ごとにかかるからでした。
  だったら、レイ・クロックをマネしよう。そう考えて、業種をラーメンとギョーザの店に絞り、そのうえで、自宅に製麺機とギョーザ製造機を設置して、それを工場に見立てて、製造直販に取り組んだんです」

 だが、最初に製麺した麺は、まるでうどんのようだった。ギョーザはマズくて食べられるシロモノではなかった。満足のいく味を作るまでには、1年近くかかった。スタッフや客に試食してもらい、アドバイスを聞きながら、味と製造技術の研究を重ねた。その経験が、今の幸楽苑の土台を築いたのだ。

 それから約30年後、幸楽苑が"290円ラーメン"を出した'06年当時のクレームは、'97年の株式公開後初めてとも言える危機だった。幸楽苑が築いてきたチェーンの土台が大きく揺さぶられた。

この続きは、プレミアム会員になるとご覧いただけます。
現代ビジネスプレミアム会員になれば、
過去の記事がすべて読み放題!
無料1ヶ月お試しキャンペーン実施中
すでに会員の方はこちら