わが小沢一郎体験 小沢一郎、この狷介にして食えない男よ
各党幹部、側近、番記者が明かす

突然、連絡が取れなくなる

「静かにしておれと言われたから、静かにしている」

 さる6月17日に開催された自身の政治資金パーティーの席上で、小沢一郎・前民主党幹事長は自嘲気味にそう嘯いたという。

 が、政界関係者の間に、その言葉を額面通り受け止める人間はいないだろう。かつて側近として小沢氏を支え、その後、袂を分かった船田元前衆院議員は苦笑まじりにいう。

「枝野新幹事長との引き継ぎの様子を見る限り、小沢さんは相当、怒っていると思う。あの人は怒っている時には『~ですっ』とか『~ますっ』という具合に、語尾を強く言う癖があるんですが、引き継ぎ後の会見ではまさにそういう話し方でした。
  今回の菅さんの『静かにしていろ』という発言は、小沢さんにとっては政治家人生で初めてといっていいほどの屈辱ですから、何らかのリベンジを仕掛けるのは間違いない」

 党の要職を離れたとはいえ、小沢氏は依然として政界の中心にいると目されている。だが、これほど長期にわたって政界の主軸を担ってきたにも拘らず、小沢氏には虚実入り交じった話が飛び交い、その真の姿が見えてこない。本誌は今回、小沢氏と近い関係にあった人物らの証言を元に、改めて小沢氏の実態を浮き彫りにしてみた---。

 冒頭の船田氏は、湾岸戦争の直後、「小沢調査会」(「国際社会における日本の役割に関する特別調査会」の別称)が発足した頃から小沢氏の直接指導を受け、以後"小沢の側近"と目されるようになる。

「確かに人心掌握の術については、小沢さんから多くのことを学んだと思います。宮沢改造内閣の発表があったときのことです。当時、羽田派からは二人を閣僚に推薦しており、ひとりは入ったんですが、もうひとりの畑英次郎さん(元農水相)が入らず、なぜか私が経済企画庁長官に任命された。

 恐らく、宮沢総理ら主流派は羽田派に揺さぶりをかけるためにあえて私を指名したんでしょうが、この時の小沢さんの対応は素早かった。

 ちょうど羽田派のメンバーは集まってテレビを見ていたんですが、小沢さんはそこにやってきて、『今回はボタンの掛け違いがあって船田君が指名された。畑君にはいずれ必ず機会が来るから、今回は船田君を助けなさい』といって、私たちを握手させた。ここで私たちが動揺しては主流派の思うツボだとわかっていたんですね」

 小沢氏の側でその巧みな政治術を見ていた船田氏だが、あるとき、そんな小沢氏の政治手法に疑義を挟んだところ、氏の態度が一変したという。

「細川護煕元首相が、佐川急便からの借入金問題をめぐり、野党から証人喚問を要求されたときのことです。新生党の政務幹事だった私は細川さんの証人喚問を阻止するために、『国会の慣例に従って、予算委員会の理事会において、全会一致でなければ喚問は決められない』という主張でかわそうとしていたんです。

 すると小沢さんに呼ばれ『お前は"日本改造計画"を読んでないのか!』と言われた。『そこに書いた通り、国会は全会一致とか慣例にこだわってはいけないんだ。

 スピーディーな意思決定のために、多数決でやれ』と言ってきました。しかし、当時は少数与党ですから多数決となれば喚問されてしまう。そう進言したんですが、小沢さんは『採決は採決だ。その上で呼ばれないようにしろ』などと矛盾した要求をしてきたんです。

 その後再び小沢さんに呼ばれて、『君はもういいから』といわれてしまった。それきり連絡が取れなくなってしまったんです」

 瞬発力や政治的な判断力には長けているが、意に沿わないとまったく聞く耳を持たなくなる---。船田氏は小沢像についてこう語るが、船田氏と同様の経験を持つのは、'82年から田中派担当記者となり"小沢の居場所が分からない時は田崎を探せ"といわれるほど距離が近かった、時事通信解説委員長の田崎史郎氏だ。

「小沢さんの政治手腕に驚かされたのは、'83年、前尾繁三郎氏と谷垣専一氏の死去にともない実施された旧京都2区で2議席を争った補選のときです。
  自民党がふたつ取るのは難しいといわれていたんですが、小沢さんは反対を押し切って野中広務さん(元官房長官)と谷垣禎一さん(自民党総裁)の二人を公認し、うまく票割りしてどちらも当選させた。当時の中曽根康弘首相は『名医の手術を見るようだ』と絶賛していましたね」

 小沢氏を通じて、政治を見る目を養わせてもらった---そう語る田崎氏だが、やはり"不可解な一件"がきっかけとなり、その距離は遠くなってしまう。

「'92年1月のことですが、突然、小沢さんと連絡が取れなくなったんです。それまでは『○○で待ってます』といえば、来てくれるような間柄だったのに、急に話ができなくなった。

 しかも、何が原因なのかわからないんです。私が前年暮れ、ある側近について小沢さんに『あの人は危ないんじゃないですか』と意見したことがあったので、それが原因かとも思うんですが、真相は未だにわからない。『お会いできないのはやむを得ませんが、理由だけは教えてください』と2度、手紙を書きましたが、返事はなかった」

 真意を測りかねる政治家---。こうした小沢氏の一面について、新党さきがけ代表幹事として小沢氏とともに細川連立政権を支えた経験のある園田博之・たちあがれ日本幹事長も、こう補足する。

「最たる例は、『国民福祉税』の導入議論が行われたときのことだ。細川政権の目玉政策として『所得税減税』を決めたのはいいけれど、その財源をどうまかなうかが課題だった。それで、与党の幹事長らが集まる代表者会議では『財源については時間をかけて協議する』という方向にまとまりかけていた。

 ところが、小沢さんが『財源については細川総理に一任するというのはどうか』と言い出したんだ。特に異論もなかったので一任したところ、その日の夕方に細川総理に呼ばれ、いきなり国民福祉税についてのペーパーを提示された。これには驚いたね」

 小沢氏は、元々代表者会議で他人の意見を聞こうなどとは思っていなかったのだろう、と園田氏はいう。

 同様に、「自分の考えを理解できない人間は、頭が悪いか、志が低いかのどちらかだ」---。小沢氏はそんな人間観をもっているのではないか、というのは、自民党政調会長の石破茂氏だ。石破氏は、'83年、田中派の派閥秘書になったときに、初めて小沢氏と会ったという。

「圧倒的に立場が違うから、ほとんど話などしたことがなかった。赤坂の叙々苑での食事会に同席する機会があったのですが、私にはひと言も声をかけてもらえなかった」

 それでも小沢氏の政治力には敬意を払っていた石破氏だが、決定的に「小沢氏のことは理解できない」と思ったのは、新進党時代、党首選で小沢氏が自民党離党以来の盟友であった羽田孜氏と対立したときだ。

「代表選で、小沢さんは『羽田が代表になったら、オレは幹事長にはならない』と言い出したんです。これはおかしいでしょう。誰が代表になっても、その人が小沢さんを幹事長に指名したなら受けるのが筋というものです。

 それで固辞する理由を聞こうと岡田克也、小坂憲次と私の3人で小沢さんの自宅に行ったんですが、奥様が出てきて『風邪で臥せっております』というばかり。

 仕方なく帰ったんですが、翌日の新聞によれば、実は小沢さんはその日、外で別の人間に会っていたんです。結局、『羽田を応援する奴にオレの気持ちを説明する必要などない』ということだったんでしょうね」

 小沢氏は、自分以外の人間を舐めている、とまで断言する関係者もいる。自民党の幹事長室長を務めた奥島貞雄氏だ。

「私は自民党幹事長室の部長として、幹事長時代の小沢氏とかかわりがあったが、自民党は毎年1月に年一回の党大会を開くことになっていた。その前日には全国幹事長会議を開くんですが、その当日になって、小沢氏の秘書から『小沢が風邪を引いて会議に出られない』と連絡があったんです。

 ところが、小沢氏は前日に事務次官ら数名と夜遅くまで酒を飲んで、二日酔いで会議をすっぽかしていたことが分かった。舐めている、と思ったね。こういう性格は直るものではないでしょう」

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