WSJの看板コラムニストが公表する「977語の倫理規定」
競争力の源泉は「業界との癒着と断つ」
2010年1月27日、サンフランシスコ。iPad発表の席で、アップルのスティーブ・ジョブズ(中央)と意見交換するウォルト・モスバーグ (向かって左) Getty Images News

 ウォールストリート・ジャーナル(WSJ)紙のIT(情報技術)コラムニスト、ウォルト・モスバーグは、アメリカ新聞業界最高の報酬を得ている。彼が書くコラム「パーソナルテクノロジー」の影響力の大きいからだ。

 では、その影響力を維持する力の源泉はどこにあるのか。一言で言えば、高い倫理基準である。

 高い倫理基準を設け、それを厳守しているからこそ、消費者本位の視点を守り、消費者の信頼を得られるのだ。「業界からの甘い誘惑に直面しても筆を曲げない」と信じてもらえなければ、競争力を失うのである。

 とはいえ、言うは易し、行うは難し、である。

 新製品の寄贈、高級レストランでの接待、スポーツや演奏会のチケット――業者からの誘惑には枚挙にいとまがない。有力批評家には無数の業者が群がり、あの手この手で「業者にとって良い批評」で書かせようとする。「どんな批評が出るかによって新製品の売れ行きが決まる」と思っているからだ。

 モスバーグは上司の命令を拒否して、「IT業界の世界首都」であるシリコンバレー駐在も拒んだ経緯がある。常に業界関係者に囲まれて生活していると、業界の論理にのみ込まれ、一般消費者の視点を保てなくなると思ったからだ。

 モスバーグにしてみれば、シリコンバレー駐在は「記者クラブ詰め」に相当したのだろう。日本特有の記者クラブは、物理的にも取材先の建物の中にある。記者クラブに常駐していると、朝から晩まで取材先の論理を聞かされ、知らぬうちに読者ではなく取材先の視点で物事を考えるようになるリスクがある。そうした危険をモズバーグは排除したのである。

 驚きなのは、モスバーグはシリコンバレー駐在拒否でも不十分と考えたことだ。「ここまで書くか」と思えるほど詳細な職業倫理声明を自主的に作成し、WSJが運営するウェブサイト上の目立つ位置で開示している。

 少し長くなるが、主なポイントだけ紹介しておこう。

金銭や贈答品を取材先やPR会社から受け取らない。
取材先やPR会社から講演料は受け取らない。
相手持ちの招待出張や格安商品の提供は受け付けない。
取材先に助言しないし、どんな形の諮問委員会にも入らない。
時に取材先からTシャツをもらうが、わたしが着ると妻は嫌がる。
取材対象企業の株式もハイテク株ファンドも保有しない。
自分の年金運用先にもハイテク株ファンドを含めない。
批評用に支給された新製品は必ずメーカーに返却する。
廉価なマウスやソフトは返却せずに捨てるか、寄付に回す場合もある。
発売前にメーカーから製品説明を受けても、批評を書くとは限らない。
製品説明を受けて批評を書く場合でも、好意的な批評を書くとは限らない。
批評のために使用した新製品を気に入ったら、通常価格で自分で買う。
批評を書くに際して自社の広告担当者と接触しない。
たとえ講演料なしでも取材先の依頼で講演しない。

 WSJの親会社ダウ・ジョーンズには全社員が順守しなければならない倫理規定がある。しかし、「高い倫理性こそ自分の価値の源泉」と考えるモスバーグにしてみれば、会社の倫理規定だけでは不満だった。

同性婚も「全面開示」

 モスバーグは同僚2人にも独自の倫理声明を作らせ、公開させている。1人は、モスバーグ監修の下でコラム「モスバーグ・ソリューション」を書いている若手記者キャサリン・ボーレット。もう1人は、モスバーグとともにハイテク会議「D:オール・シングズ・デジタル(D会議)」を運営するベテラン記者カラ・スウィッシャーだ。

 ワシントン・ポストからWSJへ転職したスウィッシャーは、モスバーグ以上に詳しい倫理声明を作っている。モスバーグの倫理声明は977語であるのに対し、スウィッシャーの倫理声明は1500語だ。

 主因は、スウィッシャーの配偶者であるメガン・スミスの存在だ。

 スミスは、スウィッシャーの取材対象である有力IT企業グーグルに2003年に入社し、今では事業開発担当副社長を務めている。報酬の多くがグーグル株とストックオプション(株式購入権)で支払われており、自分の個人資産がグーグルの株価に影響される構成になっている。

 ダウ・ジョーンズは同社倫理規定の中で「記者は、担当業界に所属する企業の株式を売買してはならない。家族も同様に、このような企業の株式を売買してはならない」と定めている。もちろん「家族」には配偶者も含まれる。

 スウィッシャーは今はWSJの正社員ではなく、契約社員としてD会議を運営している。とはいえ、配偶者のスミスがグーグルの幹部である以上、利益相反問題について全面開示しておく必要があると考えた。

 興味深いのは、スミスとの同性婚についても自らの倫理声明の中で取り上げ、「全面開示」の方針を貫いている点だ。

「言うまでもないですが、同性婚を禁止するカリフォルニア州憲法修正案『プロポジション8』には反対でした。職業柄、締め切りに追われるのが好きです。だから、2008年11月4日の住民投票で同修正案が可決される数時間前に、サンフランシスコの市役所でメガンと結婚しました。(中略)今のところ、住民投票前の同性婚は有効なようです。可能な限りメガンとの結婚を守り続けるつもりです」

 会社の倫理規定とは別に自分独自の倫理声明を作り、だれにでも閲覧できるようにしている新聞記者は異例だ。日本では皆無だろう。

 わたし自身の新聞記者時代を振り返ると、モスバーグの倫理基準には及ばなかった。自戒を込めて言えば、サラリーマン記者としての限界でもあった。理想論を掲げて自分だけ違う行動に出れば、社内的に角が立ってしまうのだ。

 日本の新聞社には会社としての倫理規定がある。だが、取材先からの“誘惑”に対してどう対応すべきかについては、総じて抽象的・一般的な内容だ。例えば、「日本のWSJ」である日本経済新聞は記者の行動規範として「(取材先とは)良識に基づいた健全かつ正常な関係を保ち、経済的利益を受領しない」と定めているだけである。

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