内田樹「器に合わせすぎては、学びは起動しないのです」神戸女学院大学教授 内田樹

2009年11月25日(水) セオリー

セオリー賢者の知恵

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 胆力を鍛えるというのはたぶん幕末から明治初期までの教育では重要なプログラムだったと思うんです。でも、それから後は体系的には整備されていない。「追い詰めて鬼にする」型の教育プログラムの方が短期的には効果があるから、時間的余裕がなかった近代日本は修羅場で鼻歌まじりに「ふつう」にふるまうにはどうすればいいかというノウハウの開発には教育資源を投じてこなかった。

 どうすればいいのか。僕は10年くらい前からそのことをずっと考えてるんです。合気道に限らず、学問においても、若い人にはどうも胆力がない。スマートな知性は備えているんだけれど、学問の世界だったら、すぐに権威や査定を怖がる。そして、怖がったあげくに自分自身をミニチュアの権威や査定者に造型し直して、「恐怖させる側」に回り込もうとする。オリジナルな学者がさっぱり出てこない理由の一つは、若い人が権威を怖がり過ぎていることがあると思う。胆力がないんですよ。

 胆力をつけるという教育課題において、僕がいつも念頭においているのは、「その人が生まれつき持っているキャラを強める方向に伸ばす」ということ。やたらゲラゲラ笑う子に対しては「もっと笑え」という方向に持っていく。静かで内省的な子に対してはさらに内省的になるように促す。その人のキャラを加速させること、とにかく自分が人より過剰にもっている点を「いいところ」だと思い込めることが、胆力をつける上でもとても有効だと思うんですよね。

メンターと出会うには

━━━ 個人の成長には、内田さんにとっての多田先生のような「師匠」「メンター」に出会えるかどうかが、非常に大切な気がします。メンターとの出会いは、運任せ、巡り合わせ次第なんでしょうか。

内田 いや、それは「運」ではなく、「センサー」が自分に備わっているかどうかだと思いますね。僕が自由が丘道場に入ったのは1975年。それから約35年が経って、僕の後にはもう1000人以上の入会者がいると思うけれど、そのうち5年以上稽古を続けている人となると、たぶん30人ぐらいしかいない。多田先生のような世界的なレベルの武道家に、直接教えてもらえる場所でも、ほとんどの人はすぐにやめてしまう。黒帯取るまでやって止めてしまう人もいる。つまり、多田先生のような達人の教えを直接受けても、ほとんどの弟子は自分が教わっていることの例外的な価値に気がつかなかった。そういう人たちを「運が悪くて、メンターと出会えなかった人」というわけにはゆかないでしょう。どんな幸運でもそれが自分のかたわらを通り過ぎたときに気づかなければどうにもならない。

━━━ 多田先生自身は、その1000人の弟子すべての人に対して同じことを教えていたんだでしょうか?

内田 先生は人によって教える内容を変えるということは絶対にしません。白帯の受身も満足にとれないような弟子に対しても、レベルを落とした稽古というのは一切しなかった。初心者にも高段者にも、同じように極意を伝授しようとされていました。

 自由が丘道場に入って5年目ぐらいのときに子供がたくさん入門したことがあって、その中にすごく態度が悪い兄弟がいたんです。道着の着方はぐじゃぐじゃで、ろくに礼もしない、稽古中もくにゃくにゃして技を覚える気がない。あまりに態度が悪いので、他の子にも悪影響があると思い、多田先生に「あの二人をやめさせたいんですけれど、よろしいですか」とお訊きしたことがある。そしたら、先生がちょっと驚いて、「そうかな、彼らは良いよ。身体が柔らかい」って(笑)。あれにはびっくりした。僕が「だらだらしてる」と思った動きを先生は「肩の力が抜けている」と見たわけですよ。先生は本当にすごい人だと思いましたね。

━━━ 多田先生にとっては、その二人は台風の中で稽古に来てくれた中学生と同じような存在だったんでしょうね。

内田 樹うちだ・たつる
1950年、東京都生まれ。神戸女学院大学教授。東京大学文学部仏文科卒業、東京都立大学大学院博士課程中退。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。現代思想や古武道の理論をもとに、様々な事象を平易な言葉で分析する。合気道六段。『私家版・ユダヤ文化論』で'07年小林秀雄賞受賞。著書に『街場の教育論』、『下流志向』、『私の身体は頭がいい』など多数

内田 そうかも知れないですね。それを聞いて、「本当に先生は合気道を教えることに関しては百パーセント『持ち出し』でやっているんだな」ということがわかりましたね。私のレベルに合う人間だけに教えるとか、私の教え方が理解できない者は来なくていいとか、そういうことはまったくない。来る者にはすべて真剣に極意を教える。でもそれは誠意とかそういう道徳的なことじゃなくて、多田先生にはどんな人間の中にも潜在的な可能性が見えたからだと思いますね。先生があらゆる人に極意を教える、極意から教えるというのは、別にそういう規範を自分に課してやっているわけではなくて、本気で教えたいから教えてるんだということがそのときわかった。

 それは先生が弟子に対して一種の敬意を示しているというふうに言えると思います。たぶん、師弟関係においては、弟子が先生を尊敬するのと同じように、教える側も弟子に対してある種の敬意を持たなければいけないんです。「師弟愛」というようなものではなくて、もっと構造的なもので。習得に長い時間と努力が必要とされる知識や技能を継承するためには、そういうディセントな関係を作り上げることが必要なんだと思う。だから、師弟関係において、教わる側が何か本質的な気づきをある日得たときにいちばんびっくりするのは、「今までぜんぜん気づかなかったけれど、初めから師匠はこんなに素晴らしいことを教えてくれていたのか」ということなんですね。大学の講義でも、学生が百パーセント理解できるようなことだけを教えるのは、授業ではない。たとえ右から左に筒抜けしていったとしても、弟子の「器」をはるかに超えたことを教えないと、学びは起動しない。弟子が何もできずにうろうろしていたときにも先生はいっときも休みなく素晴らしいものを贈ってくれていたのだということに気づいて初めて弟子はその恩に応えなければならないと思う。先生がこんなにすばらしいものを贈ってくれたのに、自分はそれを受け止めるためにこんなに貧しい器しか持っていないという疚(やま)しさ、気後れ、それが人間を成長に導くのだと思います。

〔取材・文:大越 裕 編集:戸井 武史〕

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