雑誌
上田眞理人「震災以降の個人マネーはどこへ向かうのか」
混迷時代の為替市場を聞く VOL.3

インタビュアー:磯山友幸氏(経済ジャーナリスト)

vol.2 はこちらをご覧ください。

磯山: 上田さんが為替の世界と接点を持ったのは、東京銀行に入ってすぐというわけではなかったそうですね。 

上田: もう偶然の賜物ですね。

 最初に配属されたのが大阪の船場支店でした。本人が真っ当かどうか別にして、一応真っ当な銀行業務をやりました。その後どう間違ったか銀行からスペインに派遣されました。スペイン語を学び、予定では1年間語学を勉強して、その後2年間スペインで働く予定でした。ところが、行って4ヶ月でいきなりニューヨークに行けと言われたのです。一回は断ったのですが、結局、何とか1年間学生をやらせてもらった後アメリカへ行きました。

磯山: 何年の頃ですか。

上田: 82年にスペインに行って、83年にアメリカへ行きました。

プラザ合意の円高すら耐えしのいだ日本企業の実力

磯山: 85年のプラザ合意直前ですね。その意味では、為替の激動が始まろうとする曙の時に為替の世界に入ったわけですね。

上田: まだまだニューヨーク市場も流動性がない、正に群雄割拠の様相を帯びてましたね。

磯山: 実はお会いする前に、上田さんの船場支店時代の後輩に取材したのです。いわゆる銀行業の枠に留まる方では到底なかったという話でした(笑)。

上田: それはあまりにいい風に言ってくれてます。会社も、とても真っ当な銀行業務ができないと判断して、まずスペイン語を学ばせようと思ったのでしょうね(笑)。

磯山: 80年代半ばから90年は猛烈に円高が進んでいく過程ですね。日本の産業は円高に耐えて強くなったと思いますが、当時の円高局面の日本の産業界と今はだいぶ違いますか。

上田: プラザ合意はショックでした。

 あれを成功と見る人もいますが、結果的に私は失敗だと思うし、おそらく日本政府も成功とは考えていないのではと思っています。あそこまで円高にするつもりはまったくなかったわけですから。ある程度200円を割ればいいと思っていたら、さらに円高は進んで行った。180円に行くとも思ってなかったのではないかと推測します。あの時の産業界は本当にかわいそうでした。そこで、一気に生産を海外に移す方向にいった。日本の経済に今よりもっと活力があったからできたのですが、当然企業の大変な努力があったと思います。

 それに比べ、バブル経済崩壊以降、日本の産業自体がいい意味で成熟、悪い意味では発展性がなくなってしまったので、むしろ為替レートに頼るようになってしまったところがあるのじゃないでしょうか。

260円、270円だったものが百何十円になれば、それは誰でも大変だと言いますが、100円だったものが80円になって大変だと言われても、私は、正直???ですね。確かに2割は大きいですが、つい「昔のプラザ合意のときの円高に比べれば」と思っちゃいますね。

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