石原莞爾の〝墓守り〟が私に伝えようとした「右翼の本義」

右翼とは本来いかなる存在であったか

愛国という名の風呂敷で

「右翼」とは思想でもなければ、政治的な立ち位置を表す記号でもない。

社会の〝気分〟だ。

少なくともいま、この時代に限っていえば、そう思わざるを得ない。

例外があることは承知している。

だが、私が目にしてきた〝右翼の現場〟は、多くの場合がそうだった。

差別的、排外的、攻撃的な主張を愛国という風呂敷で包み、ブンブン振り回しながら「戦後」という時間を蹴散らしているようにしか見えない。

 

左翼は理念で、右翼は情で動く──よく言われることではある。

社会主義や共産主義といった教典を持たない右翼は、情と涙こそが原動力なのだ、と。

しかし本当にそうなのか。

「ヘイト」というパフォーマンス

黒塗りの街宣車から「朝鮮人は出ていけ」と怒鳴っていた右翼団体の幹部に、なぜそのような言葉を用いるのかと訊ねてみたら「ただのパフォーマンス」だとあっさり返されたことがある。

吐き出した言葉の先にこそ、ずたずたに切り裂かれた者たちの情と涙があるはずだ。

人間の存在そのものを否定しようとする者が、何の覚悟も見せずに「パフォーマンス」の一言で、自身の行動を合理化してしまってよいのか。

要はこれも〝気分〟だ。

社会に蔓延する他者への憎悪を借景として利用しているだけだ。