野間清治の近影
メディア・マスコミ

徒手空拳から雑誌の全国販売網を作り上げた越後商人・大橋佐平

大衆は神である⑧

上州の貧しい家から、東京帝大書記を経て、戦前日本を席巻するメディア・コングロマリット「大日本雄弁会講談社」を生み出した男——野間清治。

その豪快なビジネスセンスと、鮮やかな立身出世を賞賛する文献は少なくない。しかし彼の生い立ちやほんとうの人柄は、これまであまり詳らかにされてこなかった。 ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、日本の出版業界と近代社会の黎明の光と陰を追う大河連載「大衆は神である」。

第8回は、清治が会社を設立する20余年前、日本初の出版コンツェルンを作り上げた男の半生を追う。

教育の普及、雑誌の勃興

野間清治(のませいじ)が桐生で悪戯三昧の日々を送っていたころ、日本の雑誌ジャーナリズムは勃興期を迎えていた。画期となったのは明治20年(1887)だった。2月創刊の『国民之友』と、6月創刊の『日本大家論集』が1万部以上も売れた。1000部売れれば上々といわれた時代にである。

 

その背景には印刷技術や交通・郵便網の発達があった。安価な洋紙が供給されるようになったのも一因だろう。しかし、最大のポイントは「必ス邑(むら)ニ不学ノ戸ナク家ニ不学ノ人ナカラシメン」(学制布告書)ことを目指した教育の普及だろう。伊藤整(いとうせい)は『日本文壇史2』でこう述べている。

〈明治二年に小学校が設置され、同年昌平黌を大学と改め、翌三年に中学校が設置された。それ以後の普通教育と、中等学校、高等学校級の塾や私立学校の普及は、明治二十年頃になると効果を現わし、次第に新聞雑誌の読者が増加した。印刷術の普及が多くの新聞を作り出し、新聞社自体が活版印刷機を備えるようになった。封建時代の武士に代って、新しい知識階級と言うべきものが出て来た。この新しい読者層は、仮名文字を頼りに草双紙を読んだ江戸時代の読者と違って、西洋文明の流入を目のあたり見、それによって新しい政治を論ずる、多少とも批判力のある読者であった。そしてその読者層が、新しい文学、新しい評論を自然に要求し、消化した。出版業が盛んになるべき必然の基盤が出来ていたのである〉

年少ながら、清治もその読者層の一員だった。高等小学校卒業前から雑誌を読みだし、『国民之友』などを時々広げて、外国煙草を吸ったりするのが「非常に誇りでありました」という。

田舎の少年が、ちょっと背伸びして雑誌を読む時代になった。一部の専門家や愛好家のものだった雑誌が、より広範な日本人の新たな生活スタイルに組み込まれた。このころ、雑誌出版の企業化が急速に進み、雑誌が全国津々浦々で流通する商品になった。