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なにかと誤解されやすい海賊についての「本当のこと」

日本海賊の地を歩いて分かった

日本の海賊、ふたつの誤解

海賊は、なにかと誤解されやすい存在だと思う。

ある集まりで海賊の話をしたとき、出席者の一人から、「海賊って日本にもいたんですね。外国のものだとばかり思っていました」と言われた【誤解その1】。

また別の集まりで村上海賊が日本遺産に認定されたという話をしたとき、やはり出席者の一人から、「武力を用いて航行中の船舶を襲うような無法者の歴史がなぜ文化遺産なのか」という質問を受けた【誤解その2】。

【誤解その1】は、映画やアニメなどでよく知られているパイレーツこそが海賊であって、海賊とはカリブ海や大西洋で活動した勢力であるという認識である。

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正しくはもちろん、海賊は日本史上に実在した勢力であり、明治や大正時代にパイレーツの物語が日本に入ってきたとき、その「海賊」という言葉で翻訳したためにパイレーツ=海賊という認識ができあがったのである。

【誤解その2】は、その翻訳のために海賊とパイレーツのイメージを混同し、日本史上の海賊を外国のパイレーツのイメージで理解してしまったために生じたものである。

なんとかこのような誤解から海賊を解放し、その本当の姿を多くの人に知ってもらいたいというのが、今回講談社現代新書に『海賊の日本史』を執筆した動機である。

 

そのために私がとった方法は二つである。

一つは、歴史史料に現われてくる「海賊」の語をできるだけ幅広く収集して、時代によって異なる海賊の多様な姿を明らかにするという方法、もう一つは、海賊が活動した地域をできるだけ多く訪ね歩いて、その地域的特色と海賊のあり方との関連を探り出すという方法である。

ここでは、後者の視点で海賊を訪ね歩いた旅の一端を紹介してみることにする。

鎌倉時代の遭難した船が…

本書で取り上げた海上勢力の一つに松浦党がある。松浦党というのは、九州西北部の松浦地方(地名としての松浦は現在「まつうら」とよばれている)を主たる活動の場とした中小武士団の総称である。

松浦地方には九州西方の多島海が含まれるから、松浦党の活動もおのずから海にかかわることが多くなり、場合によっては倭寇とのかかわりも取りざたされる。

九州西方の多島海を代表する五島列島中央部の西の端に日島という小さな島がある(現在は橋によって他の島々とつながっている。長崎県新上五島町)。

今は、浦々に所在する多くの漁村の一つに過ぎないが、鎌倉時代後半の1298年、この島が一躍脚光を浴びる事件が起こった。近海で、中国(元王朝)に向かっていた幕府の貿易船が遭難したのである。

このときの様子を当時の記録は、

「貿易船の遭難を知ると、樋島(日島)の住人らが七艘の船に乗って漕ぎ寄せてきて貴重な積荷を運び取ってしまった。さらに続いて、近隣の島々浦々の船党等も、樋島の者たちに交じり合って積荷を運び去った」

と記している。

このような、難破船に漕ぎ寄せて積荷を運び去ってしまう行為を松浦党の海賊行為とみる見方もあるが、中世にしばしば見られた寄船慣行(漂着船やその荷物は、船が難破して漂流船となった時点で「無主」の存在となり、漂着地の者の所有物となるという慣行)のことを考えると必ずしもそうとはいえない側面もある。

それよりもここで注目すべきは、日島や周辺の人々のたくましい行動力である。彼らは、遭難船が出るとみるや幕府関係の船であることをものともせず、またたくまに積荷を運び去り、その後の幕府からの返還要求にも応じなかったらしい。

もう一つは、そのような彼らの行動力の背後に垣間見られる日島の集落としての活況である。現在の静かな漁村の様相とは異なり、当時は日島や周辺の島々浦々では、人々の活発な生活が営まれていたのではないだろうか。