画/おおさわゆう
医療・健康・食

医者のほとんどはドイツ語を使えないって…ホントですか!?

覆面ドクターのないしょ話 第20回
「カルテ(診療録)」「クランケ(患者)」「シャウカステン(レントゲンフィルムを見るためのディスプレイ)」「ステルベン(死亡患者)」……、日本の医療界では、ドイツ語が幅を利かせている。さすが難しい試験を突破したお医者さん、外国語なんて軽々使いこなすんだろうと思ってました。ところが……、「誤解です。ぜんぜんそんなことありません」ーー次郎先生は、強く否定するのだった。

医学生は、ドイツ語、ラテン語で大混乱!?

「次郎先生のカルテ、何が書いてあるのかちんぷんかんぷんなんですが、お医者さんってやっぱりドイツ語で書いてるんですか?」

診察中に、カルテを覗き込んだ患者さんにこう訊かれることがある。

 

その度にドイツ語なんか忘れてしまった自分が恥ずかしくなる。医者はドイツ語なんか使っていません。私はカルテを書くとき、英単語を交えつつ、基本的に日本語で書いています。ちんぷんかんぷんなのは字が汚いからです。ごめんなさい。

医療ドラマで、「この患者さんは」というところをドイツ語を用いて「このクランケは」などと表現することが多い。視聴者ウケするのかもしれないが、現場でクランケなどと言う医者はほとんどいない。普通に「患者さん」と言っている。

大学で習ったドイツ語、すっかり忘れて、1、2、3をイッヒ、ニヒ、サンヒと数えた友人がいました(photo by istock)

日本は江戸時代にオランダから西洋医学を学んだ。幕末に開国して欧米の学問がどっと流入したが、明治政府がドイツ医学を採用し、これが主流となった。かの文豪にして陸軍軍医総監を務めた森鴎外も、22歳のときから4年間ドイツに留学している。そして、戦後にはアメリカ医学が主流になり、現在に至っている。

ドイツ語で医学を学ぶ意義はもはやほとんどないが、最近まで医学部の第2外国語は伝統的にドイツ語と決まっていた。英語のI(私は)はドイツ語でIch(イッヒ)、1,2,3はein, zwei, drei(アイン、ツヴァイ、ドライ)、あとは忘れてしまった。

ドイツ語の先生はプライドが高いのか、あまり英語を使いたがらなかった。教養課程のとき、1学年約120人がA組とB組の2つに分かれて授業を受けていた。先生がクラスに入ってきて学生に尋ねる。

「ここはどっちのクラス?」
「A(エイ)組です」
「あーそう。A(アー)組ね」

とドイツ語を使う。

次の時間には隣のクラスに来て、

「あーそう。B(ベー)組ね」

と言う。

この調子でいくと、「H組」は「ハー組」、「P組」は「ペー組」ということなる。

現在、多くの医学部の第2外国語は選択方式に変わり、フランス語・中国語・韓国語などが学べるようだ。

私の学生時代、医学部の教養課程には面倒な外国語の授業がもう一つあった。それはラテン語である。

「ラテン語ってどういうの?」と訊かれても、「すみません、すべて忘れました」としか言いようがない。一つだけ言えることは、ラテン語は難しかったということだ。

ラテン語の授業が始まる前、私は東京・神保町の古書店街に走った。「ギリシャ・ラテン語引用後辞典」を買うためだ。これは必須だった。この辞典、その後の私の人生に何の影響も及ぼさなかったが、本棚に並べるとすごく気品あふれていて、私をすこぶる満足させた。

ラテン語の先生もプライドが高かった。「ラテン語ができたら、英語なんて1週間でマスターできますよ、ホホホ」などとうそぶいていた。私は何一つラテン語を理解できなかったが、ありがたいことにラテン語のテストは辞書持ち込み可だったので、何とか進級することができた。

ローマ・カトリック教会でもあるまいし、どうして医学にラテン語が必要なのか? それは、解剖学用語が伝統的にラテン語だからなのである。

専門課程では暗号のようなラテン語をひたすら覚えた。長いラテン語の医学用語がある。

Sternocleidomastoideus(ステルノクレイドマストイデウス)、これは筋肉の名前なのだ。首を横に回すと、首の横に耳の後ろから鎖骨の内側に走る太くて長い筋肉が現れる。これを胸鎖乳突筋〈きょうさにゅうとつきん〉といい、これをラテン語で言うと、ステルノクレイドマストイデウスという呪文のような言葉になる。

全身から心臓に戻る血液が流れる大静脈をVena cava(ベナ・カバ)というのだが、私はつい動物のカバを思い出してしまう。

ドイツ語の話に戻るが、ドイツ語の授業は教養課程で習ったきりで、以後専門課程でもドイツ語の授業はなかった。ところが、面倒なことに、教科によってはドイツ語の単語が出てくるのと、ドイツ留学歴がある教授は、ムダにドイツ語を使いたがった。授業中や実習中も英語とラテン語とドイツ語が混在し、私はこんがらがって、結局わからずじまいだった。

だが、ドイツ語を使うメリットもないわけではない。尿のことを英語でurine(ユーリン)という。外来中にちょっとトイレに行きたくなったとする。「先生、どこ行くんですか?」とスタッフに訊かれ、「おしっこ」とは言いにくい。患者さんも聞いている。「ユ―リン」は「ゆうこりん」みたいで可愛いすぎる。そんなとき、便利なドイツ語が「ハルン」なのだ。

「ちょっとハルン」

うん、さらっとしてていい感じ。

「ちょっとハルンに」今度使ってみよう(photo by istock)

もう一つ。「先生、どちらに?」とスタッフに訊かれ、「めし」ではなんとも野暮ったい。待合室で患者さんに聞かれたら、医師としての威厳が損なわれる感じがする。かと言って、「ランチ」と言ったら、お腹を空かせているかもしれない待合室の患者さんに気の毒だ。そんなときは、これもドイツ語で「ちょっとエッセン」と言うことにしている。おしゃれな雰囲気もあって、これもなかなか良い。