石戸諭氏(左)/武田砂鉄氏
ライフ 日本

いま、この国に漂う「奇妙な気配」に抗う方法

武田砂鉄×石戸諭【特別対談】

発売直後に重版が決まった話題の書『日本の気配』。なぜ空気ではなく、気配なのか。気配に抗う方法はあるのか――著者の武田砂鉄氏(35歳)と、先日、バズフィードジャパンを退社しフリーランスとなった石戸諭氏(34歳)の二人が、この本を題材に「この国にいま漂う、奇妙な気配」について語った。

「勘ぐれ」

石戸 『日本の気配』というタイトルを見たときに、「なるほど、気配か」とうなってしまいました。本書の冒頭にも「なぜ、空気ではなく、気配なのか。空気読めよ、とは言われるが、気配読めよ、とは言われない。気配なんて読めないからだ」と書いていますが、武田さんが伝えたかったのは、いま、日本を覆っている「気配」の不気味さなんだろうと読みました。

武田 そうですね。「空気」が支配する国だった日本の病状がさらに進み、いまや誰もが「気配」を察知することで、自粛、どころか自縛する時代になったと感じています。

「空気」や「気配」という言葉を考えるときに思い出されるのが、「NHK番組改変問題」です。NHKが2001年に放送した番組『問われる戦時性暴力』について、放送から数年後に、朝日新聞が「政治家による圧力があった」と報道し、大きな話題となりました。この政治家の一人が、当時官房副長官だった安倍晋三氏です。

当時NHKでプロデューサーを務めていた永田浩三さんが、『NHKと政治権力』(岩波現代文庫)という本の中で、安倍晋三氏がNHKの放送局長を呼び出し、こう言ったと証言しています。

「ただでは済まないぞ。勘ぐれ」と。

SKID ROWのTシャツで対談に臨んだ武田砂鉄氏。同バンドの名曲「MonkeyBusiness」は「ごまかし、いんちき」の意味だ。

石戸 「勘ぐれ」。スペシャルなワードですよね。

武田 強制ではないし、何か具体的にアレをやれ、という命令でもない。でも、「空気読め」よりも強い言葉です。「分かるだろお前ら?」です。この「勘ぐれ」の一言で、周りが都合のいいように動くことを期待する。

財務省の文書改ざんにしても、あるいは日大アメフト部の問題にしても、その首長が、「都合の悪いところを隠せ」や「問題をごまかせ」などと直接的な指示を下していたのかどうかが、いつまでもあやふやなまま。「勘ぐれ」的な言葉によって、周りが動いて、よろしくやってくれる。今回は、もしかしたら「勘ぐれ」とさえ言っていないのかもしれない。トップがそういう意向だと周りが執拗に察知し、勝手に動いたのかもしれない。つまり、「気配」を察知しているんだ、と。

 

石戸 空気が支配する国、という話で言うと、山本七平の『「空気」の研究』がよく知られた本です。要するに、いかに日本人の決定がその場の「空気」に左右され、尊重されるべきものになるか、について書かれた本です。最近の言葉で言えばKYとか、同調圧力とか、現代にも通じる分析として読むことができます。

大事なのは、「空気」はまだ抗うことができるということです。この本でも空気に対する「水」についての分析があります。「水」は身も蓋もない事実の比喩ですね。あえてKYになって、事実を示すことで、抵抗するということができるわけです。

むしろ、批評やメディアに関わる人間としては、いかに過熱する空気に水を差すか、流されないかが大事なわけですよね。

武田 どうやって、時代の、世間の空気を疑うか。えっ、ちょっと待ってよ、と食い止めるか。批評というのは常にそうやって流動的なものに食らいつく着眼を持つべきだし、それがなければ議論は始まらない。そうそう、『「空気」の研究』って本があったね、昔からこうだよね、と提示するだけでは、議論がたちまち終わってしまいます。

石戸 でも、「気配」は、空気よりさらになんだか実態がわからないもので、水を差すことすら難しい。とにかく気配を「察知」しておもんぱかって行動しろ――というのみ。そうして、あらゆるところでみんなが「気配」を「察知」しあってがんじがらめになってしまっている。

特に気配というのは、空気以上に人によって感じ取り方が違うんじゃないか、と思っています。批評家がなにかを批評しても、そもそもの「共通に感じているもの」が違っているから、話がかみ合わない。ツッコミを入れても、入れられた方やその周辺はポカンとしているんです。それがいまの日本の状況なんだなと改めて感じました。そして、事実を示してもよくわからない弁明が繰り出される。

武田 「自分の声は自分の体を通して聞こえるから自分の声かどうかわからない」と珍奇な言い逃れをした福田淳一前財務次官のセクハラ問題も、都合良く記憶が消えたり戻ったりする柳瀬唯夫元首相秘書官らの加計学園問題も、とにかく話がかみ合わない。問いに答えない。でも、なぜか、そのまま定着してしまう。

日大アメフト部の危険タックルの問題でも同様です。学生から「危険タックルを命じた」と告発された内田正人監督は、会見で「自分はそういうつもりで言ったのではない」などと信じがたい弁明をした。

その場を逃れるために苦し紛れで言ったのなら、まだ「呆れた男だ」とストレートに思えるわけですが、内田監督はもしかしたら本当に、我々とはまったく相容れない価値観というか、自分を洗脳するかのように「自分はそういうつもりで言ったのではない」と言ったのかもしれない。それが、日大という組織の中枢で放置され、通用していたのが恐ろしい。