Photo by iStock
医療・健康・食 エンタメ ライフ

「男は勝負するんじゃないのかよ」父への言葉を飲み込んだ10代の日

現役証券マン・家族をさがす旅【20】

78歳で倒れ、入院した父。息子で40代の「ぼく」は、ぶっきらぼうで家族を顧みない父にずっと反発を覚えていたが、父に前妻がいたこと、そして自分の腹違いの兄が存在することを聞かされて以来、家族の過去を調べるようになった。

2度の手術を乗り越えて徐々に回復し、転院の準備に入った父。その頃「ぼく」は、25年前に父から映画の企画を持ちかけられたというドキュメンタリー作家・北村皆雄を訪ね、当時のことを聞こうとしていた。

現役証券マンで作家の町田哲也氏が、実体験をもとに描くノンフィクション・ノベル『家族をさがす旅』。

 

「自分のキャリアを嘆いていた」

父はパン屋で稼いでいるとの紹介で、羽振りよく見えたという。資金を出すので、北村氏を監督に一緒に映画を作ろうという流れができつつあった。

「町田さんがよく話していたのが、映画を作って昔の仲間を見返してやりたいということでした」

「岩波時代の人たちですね」

「具体的な話をしていませんでしたけど、自分のキャリアが不本意な形で終わったことを嘆いていたように見えましたね」

「どんな作品をやろうとしていたんですか?」

「それが不思議で、何度か会ってみたものの、何を作りたいのかが出てこないんです」

「北村さんからアイデアを出したのかと思っていました」

「いや、私は演出家として雇われただけです。金を出すから映画を撮って欲しいなんていう依頼はほとんどないので、珍しいパターンだったんです」

「父のほうから具体的な話は?」

「結局、アイデアが出る前に変な方向に話が行っちゃったんです」

「というと?」

「佐川さんが、自分にカメラをやらせてほしいといい出したんです。昔はカメラマンとしてそれなりに活躍したことは、私もわかっていたつもりです。でも何十年もカメラから離れていて、いきなり撮影できるほどこの世界は甘くない。どうすれば心をつかむ映像が撮れるかをいつも考えている自分たちを、バカにしているようにしか思えなかったんです」

Photo by iStock

この頃から、北村氏は企画から距離を置きはじめたという。

鮮明に憶えているのが、三人で喫茶店で話していたときのことだ。家族からの電話で呼び出された佐川氏が、真っ青になって戻ってきた。家を差し押さえられたという話で、佐川氏は「すぐに帰る」と飛び出したという。

それ以来、北村氏は佐川氏に会っていない。映画の話も、このときの騒動で立ち消えになってしまった。結局父に会ったのは、埼玉県O市の自宅に訪問したときもあわせて3、4回だったという。

当時の北村氏は、大きく仕事を広げようとする時期にあった。80年代はおもに、テレビの仕事で成果をあげることができた。90年代前半は経済的に余裕ができてきた頃で、自分のやりたいことをやろうという気持ちになりつつあった。

92年から93年にかけては自主映画を製作することに関心が出てきた時期で、このような話に飛びついたのはよくわかる。本当に佐川氏や父にやる気があるのであれば、自分でもやってみたかったという。

記録映画を作るには、莫大な時間と金がかかる。上映とフイルムの貸出しで回収するのが一般的で、経済的に元を取るのに5年はかかる。

製作は多くても2、3年に1本あるかどうかなので、持ち込みの企画はありがたい。社内には、どんな映画かもわからないのにつき合うことに、懸念する声もあった。

93年は忘れられない年になった。 NHKの番組制作のために訪れたチベットで、一人の犠牲者を出してしまったのだ。激流をカヌーで渡るシーンを撮影していたときのことだった。探検の発案者であり隊長でもあった北村氏が誘った、まだ大学を卒業したばかりの若者だった。

「もう何もやる気がなくなっちゃいましてね」

そのときの気持ちを、北村氏はそう説明する。事故のことは角幡唯介のノンフィクション『空白の五マイル』に描かれており、北村氏も実名で登場する。51歳のときだ。

その後北村氏は、『見世物小屋~旅の芸人・人間ポンプ一座』という映画を97年に製作する。この作品は、最後の肉体芸パフォーマーと呼ばれた、安田里美氏とその一座の興行を内側から記録したドキュメンタリーだ。それまで映画との距離を置くことになった。

新メディア「現代新書」OPEN!