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「〈私〉探し」の強迫から逃れる——『じぶん・この不思議な存在』

現代新書 特別エッセイ「自著を語る」

「じぶん」という存在に対する不安

「今日、精神分析医の病院の診断用の椅子は、《わたしはだれなのか、教えてください》とたずねる人びとの重みにうめいている」と、マーシャル・マクルーハンが書いたのが1966年。

そして「〈私〉探し」「自分探し」が、わたしたちの社会でまるでブームのように語られだしたのが、1980年代。

SMAPが《世界に一つだけの花》のなかで、「ナンバー・ワンにならなくてもいい/もともと特別なオンリー・ワン」と歌ったのが、2002年。

「じぶん」は他人と明確な差異をもつ特別な存在でなければならないという観念の強迫に、いまもなお若い人たちは疼いている。

片や、大学受験でも、一発勝負の入学試験の点数ではなく、入学志望の理由書や小論文、面接など人物評価を重視する「AO入試」(「一芸入試」というのもそのあと現われた)が始まったのが、1990年代。

そして2013年の秋には、政府の教育再生実行会議が、センター試験の改編とともに「人物本位」の選考を提言した(ただし「人物本位」という表現は提言そのものにはなく、各種メディアがこぞってそう捉えたもの)。

成績で選別するのではなく「人」で選別するというのである。

試験というかたちで人を選別する社会。幼稚園への入園から企業での昇格試験まで、そこでひとは人生の半分以上、試験による選抜に晒される。

そのとき「不合格」と判定されるというのは、「あなたの存在はわたしたちの組織には適していない」、もっとあからさまにいえば、「あなたの存在は不要である」と宣告されることである。

このような体験を物心つく前からくりかえしていると、ひとはじぶんでも気づかないうちにダメージを溜め込むことになる。そしてじぶんの存在に対してどろんとした否定的な感情を抱くようになる。

 

若者たちの「居場所」探し

それに輪をかけて、昨今の若い世代の就労状況にはまことに厳しいものがある。

「シューカツ」(就職活動)では、何十、ときには百を超えるエントリーをまずおこない、かろうじて数社の面接試験にまでたどりついたとしても、そして面接での査定の視線に対し、媚びるかのように必死で心のしなをつくっても、最後はシャットアウトというケースが、まるで常態のようになっている。

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戦後高度成長期の中学生の集団就職では、15歳にして親元を離れて集団で上京し、そこから一人ずつそれぞれの働き場へと別れていった。ひどく心細かったであろうが、しかし、存在のダメージは「シューカツ」の大学生よりは少なかったかもしれない。

というのも、家計を支える、家族のために口減らしをするといった理由を子ども心にも知るところがあって、送りだす家族の「すまない」という気持ちを汲みえたし、迎え入れる工場の主人から「よく来てくれた」とのねぎらいの言葉を受けることもできた。

いまの学生たちには、そうした背後からの支えも、企業からの歓待もない。そしてそのうちの少なからぬ部分が、腕を磨きようもない非正規の職かアルバイトに就くほかなくなっている。