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なぜ日本の演劇は「大げさ」「わざとらしい」と感じるのか

現代新書 特別エッセイ「自著を語る」

「リアル」な芝居を解明する

『演劇入門』というのは、いま考えても背筋が寒くなるほど不遜な書名であった。

私が調べたところでは、同じ書名の本は、過去に3冊出ていて、いずれも新劇界の重鎮千田是也氏と岸田國士氏と福田恆存氏の手によるものである。

私の『演劇入門』の方は、当初、自分の心づもりでは、『リアルのメカニズム』という題名になるはずで、実際、そのような目論見で原稿を書き進めた。内容の過半は、自分の劇団の中で開発していた、集団で戯曲創作を行うためのプログラムをまとめたものである。

ところが、初稿が上がった段階で編集者から、書名を『演劇入門』としたいという申し入れがあった。

当時35歳の私は、もちろん戸惑い、できればそれは避けたいと答えた。『演劇入門』という書名は、あまりに大仰で、いまどきの表現を使うなら「上から目線」に思えたし、なによりこの本は、演劇全般の入門書のつもりで書いたわけではなかったから。

それでも編集者は、ぜひにと言う。「編集長も、どうしても『演劇入門』でと言っています」と担当から聞いた記憶があるが、いまとなっては、その真偽のほどは分からない。

数日考えてから、『演劇入門』という書名で行こうということになった。生来、小心者のくせにはったりをかますことが好きというひねくれた性格が、まぁこういう書名も一興であろうと思わせたのか。もう15年も前のことなので、詳しいところまではよく覚えていない。

当時、私の演劇スタイルは「静かな演劇」と呼ばれ、演劇界で、ある種のブームの渦中にあった。

とある新聞取材で、「流行が去ったあとにはどうしますか?」と聞かれ、「ブームはあと2年くらいだと思うので、その間に巨匠になります」とうそぶいたこともある。巨匠なら、『演劇入門』も許されるだろう。

 

「演劇臭い」と感じる理由

もう少し真面目なことも考えた。

たしかに私は、日本の近代演劇が抱えてきた諸問題を、大きくは戯曲、あるいは戯曲のことばの問題であると考え、その改革を提唱してきた。

「芝居がかった」「演劇臭い」と形容される演技は、多くは、俳優の責任というより、無理な語順で書かれた「日本語のようで日本語でない奇怪なシステム」(小林秀雄)による台詞に原因があり、これを整理することで極端な強弱アクセントは排除され、本来の日本語らしい発話が行われるはずだというのが、私が提唱してきた現代口語演劇理論の中核であった。

もう一点、この『演劇入門』から、近刊『わかりあえないことから』(講談社現代新書)に至るまで一貫して問題にしてきたのは、「対話」という概念についてだった。

日本には「対話」という概念がない、あるいは薄い。しかし、近代演劇は「対話」を中心課題とする表現である。ならば、日本語による近代演劇は成立しないのではないか。

この哀しい三段論法を引き受け、そして、そこからどうやって日本独自の近代演劇を作っていくかということを、文字通り十年一日のように私は考えてきた。

この2点をもって、現代の日本演劇のもっとも大きな課題とするなら、そのことを中心として書き連ねたこの本が、『演劇入門』という書名を名乗っても、かろうじて許されるかもしれないと自分を納得させた。