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パンのあの食感と香りをつくるには、こんな科学的根拠があった

こんな試行錯誤があったとは…

目からうろこが落ちた

30年ほど前だったろうか?  たまたま本屋に立ち寄った折に、新刊コーナーに平積みされている『空飛ぶフランスパン』を見つけた。

「けったいなタイトルやなー」とさっそく手に取ってみると、帯に「フランスパンと確率論」「カオスと情報とクロアッサン」(原著ママ)とある。さらに表紙と背の部分を一瞥すると、なんと英語で『FLYING BAGUETTE』とかっこよくレイアウトされている。

私もアメリカ留学から帰って2~3年の頃だったので「このおっさん、絶対アメリカ帰りやわ!」「いったい何もんなんや?」と思いめぐらせながら著者紹介文を読むと、著者の金子郁容先生は、一橋大学商学部教授(その後、慶應義塾大学SFC研究所長も務めたようである)とある(おっさんなんて言って誠に申し訳ございません)。

やはりアメリカの大学で准教授などをされたご経験があり、ご専門は情報論、ネットワーク論というのだから、なぜパンなのだろうと思いながら購入。アメリカ暮らしとパン好きという共通点で妙に惹かれたのだった。

パンの科学と技術を指導する教育者となっていた私は、研究の一環と思い『空飛ぶフランスパン』に向き合った。ところがまるでピンとこない。

「確率論」や「カオス論」は大まかな知識はもち合わせているものの、それらの概念と実体のとらえ方がなかなか理解できない。

全編通して出てくるパンの話は、著者のパンへの愛が感じられ、かなりパン作りを極めていることはわかったが、フランスパンやクロワッサンを作ることと「確率論」とのリンクが、一読しただけでは納得できなかった。忙しさにかまけて、いつのまにかその本は本棚の片隅へと……。

ところが、この度『パンの科学――しあわせな香りと食感の秘密』の執筆にあたり、この『空飛ぶフランスパン』がふと脳裡をかすめたのだった。

本の中の「フランスパンを作るためのレシピーはアルゴリズム(計算手順)に似ている」という件を思い出す。そこで再読しようと、本棚を探すが見当たらず、書店に急ぐもさすがに絶版のようで、古書を購入。30年ぶりに会う恋人のような気持ちで対面した。

すると、はじめて著者の意図が読み取れ、「目からうろこが落ち」、頭の中を覆っていた靄がスーッと晴れた気分になった。パン作りのプロセスの科学を執筆しながら、パン生地の状態の変化などを解説するにあたり、「理論と実際」のズレを感じたり、自分自身の表現に矛盾点を見つけたり、やや懐疑的になっていた矢先のこと、気持ちが整理できたのである。

 

パン作りにおける「アルゴリズム」

たとえば想定される最終製品を「目的とされるパン」とするならば「そこに到達するために実行すべきステップの指示の集まりが、プロセスである」というような言葉に、はっと気づかされるものがあった。

到達するには、いくつものプロセスの中で「こうしなければならない」とか「こうした方がよい」を実行すること。そしてこの根幹となるのが、パン作りの科学的根拠である。

パン作りのアルゴリズムとは、数多くある「こうしなければならない」とか「こうした方がよい」の各ステップにおける選定とそれらの優先順位の決定にあると私は考える。ただ、方法論は当然一つではないし、「目的とされるパン」の状態はそれぞれ異なる。

また、仮に正解手順をひとつに絞り込んだとしても、パン作りの第1段階のミキシングにおいて、毎回同じ状態の生地にこね上げることなど不可能に近い。ゆえに「目標とされるパン生地」の出現は数学的「確率論」に当てはまらないのである。