メディア・マスコミ

エリートの階段に乗り遅れた男が、沖縄から上京して見た夢

【新連載】大衆は神である③

読売新聞社、岩波書店、中央公論――大正・昭和を背負って立つメディアが続々誕生し、確立していった明治後期、少し遅れて、ある大衆メディアが芽生えようとしていた。

現代では批判にも多くさらされている既存メディアはどのように誕生し、大きくなっていったのか。ノンフィクション作家の魚住昭氏が極秘資料をもとに紡いでいく、新しい近代メディア論第3回は、のちに大衆メディアを築くことになるひとりの男の、エリート街道に乗り遅れた心中を描く。(第1回連載はこちら 第2回連載はこちら

 

ただ常に心配なるは……

東京帝大の正門をくぐると、目の前にまっすぐ伸びる大きな道があった。道の両側には銀杏(いちよう)の並木がつづいている。道は途中から緩やかな下り坂になっていて、そのスロープの突き当たりにある、こんもりとした緑の塊が、上野のお山である。

当時の東大正門

沖縄県の視学(学事の視察・指導にあたる地方教育行政官)をつとめていた野間清治(当時28歳)が、東京帝大法科大学の首席書記として着任したのは、明治40年(1907)10月、正力が入学してひと月後のことだった。

野間の新しい職場となる法文科大学(法科と文科は同じ建物にあり、事務室も合同してひとつの部屋にあった)は、正門から伸びる大きな道の右側にあった。
英国人建築家コンドルの設計になるヴィクトリアン・ゴシック様式の建物で、総レンガ造り。三角の屋根が空に突き出す二階建て校舎だった。

野間は岩波より3歳、滝田より4歳、正力より7歳年長だった。ここへ来るまでにたどってきたコースも彼らとはまるで違う。群馬の尋常師範学校をビリから3番目の成績で卒業し、臨時教員養成所を経て、沖縄県立中学の国語教師に派遣され、ついで沖縄県視学になった。

野間はズボラで、遊び好きで、借金まみれの放蕩生活を沖縄で送ってきた。それでも野心だけは人一倍あったようだ。沖縄から東京に戻る1年前、友人あてに書いた手紙を読んでみよう(以下、引用文内の()部は著者による注および補足)。

〈小生この島に既に二年半、諸方面に活躍いたし、今では教育界において、少しは意見も用いられるよう相成り候。ワイフの周旋もたえまなくこれあり候。ただ常に心配なるは、かくて四年、五年も過ぎなば、全く琉化しおわって、ついには内地に帰っても使いみちなくすたれ者と相成るべしと心配のみ致し候。殊に近来この感はなはだしく頭を痛め候。ついては恐れ入り候えども、御高見承りたく候。

  ○大学選科に入るべきか。

  ○高師研究所(=高等師範学校の研究科)に入るべきか。

  ○今より高等文官試験を受けるつもりで勉強すべきか。

  ○支那か満洲かへ出かけ申すべきか。

  ○選科に入るには何々の試験これあり候か。

  ○高師研究所入学試験は何々か。

 右なにとぞご教示下されたく候。

 備考

  ただいまの状態

  俸給  中学より 四十五(円)

  養秀学校(=沖縄県立中学に隣接した私立学校)より 五(円)

  年末慰労 五十(円)ほど>

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