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養老孟司が語る「デジタル化する世界」を生きる人々への処方箋

第22回ゲスト:養老孟司さん(後編)

週刊プレイボーイの黄金期を築いた伝説の編集者・島地勝彦が、ゲストとともに“大人の遊び”について語り合う「遊戯三昧」。第22回目となる今回は、ご存じ養老孟司さんをお迎えして、現代社会を蝕みつづける「不寛容」の精神について考えます――。

前編【西部邁さんの死は、日本社会の「不寛容化」の象徴です。

0と1でものごとを記録する社会

島地: 先生が久しぶりに自ら書かれた『遺言。』ですが、正直ちょっと難しくも感じました。読み終えてから振り返ると筋が通っているんですけど、読んでいる途中は話がいろんな方向に飛んでいくから、頭の中を整理しながら追いかける必要がありますね。

養老: ぼくがしゃべって編集者、ライターがまとめる「語り下ろし」の場合、読みやすいように編集されていますが、今回はそれを意識せずに書きましたから。作家の玄侑宗久さんなどは「桂馬飛びしますね」と言っていました。

島地: さすが芥川賞作家、うまいこと言いますね。まっすぐ進むかと思ったら、別の方向にひょいっと飛んで、でもその手にはちゃんと意味がある、ということですか。

前回、社会全体が不寛容になっているという話がありましたが、不寛容になっていると同時に、「わかりやすさ」を求めすぎではないかと、この本を読んで、逆説的にそう感じました。

養老: コンピューターの0と1と同じく、物事の判断基準が「正しいか間違いか」「儲かるか損するか」「合理的か非合理的か」など、二者択一になってしまうケースは多々ありますね。不倫報道も「正しいか間違いか」だけで判断したら、そんなの「間違い」に決まっている。でも「正しいと間違いの間」にこそ味があるものでしょう。

島地: そうですね。白黒だけではなくグレーもある。それを無視してしまうと、つまらない世の中になります。小説や映画などが扱うのはだいたい、グレーの部分ですよね。

日野: そうはいってもテクノロジーの進歩は止められないと思いますが、コンピューターでどこまで可能になるんでしょうか。例えば、コンピューターに芸術がつくれるのか、とか。

養老: おもしろい視点ですが、本質的に、コンピューターには芸術はつくれないとぼくは思います。デジタル化すればいくらでも複製ができる。でも、これも本に書きましたが、芸術の一つの前提は「唯一性」であって、それがコンピューターにはありません。

コンピューターは芸術家になれない

島地: 創作の手段としてコンピューターを使うことはできても、あくまでも手段であって芸術そのものではありませんね。例えば音楽は、現在のテクノロジーをもってすれば、デジタルでより完璧な演奏を再現するのは難しくないはずです。でも、生演奏の価値が損なわれたという話は聞いたことがありません。

養老: 昔、CDが出始めた頃、レコードを聴きなれたプロはCDの音質に否定的でした。深みがないとか、なんとか。

島地: そうでしたね。理由はわからないけど、レコードのほうが音に厚みを感じましたね。

養老: 筑波大学の大橋力さんが調べているのですが、当時のCDはヒトに聞こえる範囲以上の周波数の高い音を、「無用」なものとして除いてあったそうです。そこで、聞こえないはずの超音波を加えて被検者の血圧を測定してみたら、超音波を除いたものと比較して、明らかな有意差が出た。

島地: ほう、それはなかなか興味深い話ですね。

養老: 要は、音は耳だけで聞くわけではないんです。身体も振動する。鼓膜は振動しなくても、身体の別のところが振動して、音として意識されてもなんの不思議もありません。

島地: 生演奏には数値化されない何かが含まれていて、理屈を超えたところで我々を感動させているんですね。

養老: そうです。なのに、意識でわからないものは、ないものとして無視するのがコンピューターが支配するデジタルの世界です。だから、コンピューターには芸術はつくれない。だって、芸術というのは0と1の間に存在するのですから。