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アラーキーは、なぜ時代と乖離したのか? 元担当編集が明かす

これから彼に写してほしいものがある

モデルからの告発

過激な女性ヌードで名を馳せてきた写真家の荒木経惟が、「ミューズ」と称えて長年のあいだ被写体にしてきた女性から、「#MeToo(ミートゥー)」を突きつけられた。

この出来事はツイッターなどをとおして拡散され、荒木の言動に対して疑問や批判の声が渦巻いた。写真史研究家や編集者などもSNSで呼応し、荒木の作家活動を好意的に紹介してきた写真評論家もwebメディアで見解を披歴した。

また女性ヌードに取り組んできたベテラン写真家のひとりは、KaoRiへの批判と荒木の擁護をFacebookと自身が運営するウェブサイトで公開してもいる。

民俗学者という肩書と併せて、編集者を名乗ってもいる筆者の、代表的な編集刊行物は、『荒木経惟写真全集』(全20巻)である。

今回の事態について、1990年代の後半に、荒木の写真集や著作物を30冊以上編集し、大学で数年間、「写真編集」という講義を受け持っていた立場から、また民俗学の視点からも考えを述べておきたいと思う。

荒木経惟写真全集

反応は荒木への非難がほとんどだった

モデルとして荒木のカメラの前に立ち、裸体を写され、写真集や写真展に発表されてきたKaoRiが、「その知識、本当に正しいですか?」と題する手記をウェブサービス〈note〉に投稿したのは3月末だった。

KaoRiは荒木のモデルを務め、自分の姿を公開され続けたにもかかわらず、その関係断絶の経緯も含め、まるで“モノ”のように扱われてきたというのだ。

“モノ”のようにという表現に至ったのは、写真の発表に際し、契約書も交わされないまま、「ミューズ」を演じることを強要され、彼女の本業や私生活まで支障を来たしたためである。

 

セクシャルハラスメントを告発する#MeTooが、一定の市民権を得ている状況もあり、この投稿はツイッター等で拡散されると、荒木に対する非難が沸き起こった。

荒木の写真に対する評価は別にしても、現実と現在の時代状況からすれば、手記に書かれた荒木の行動は批判されるべきことだろう。

また荒木の作品と人物像に、もともと違和感や嫌悪感を覚えていた人々が、KaoRiの手記を読み、「さもありなん」と納得したという側面もあったようにも感じる。

そんななかで、荒木経惟の写真作品に長年寄り添ってきた写真評論家の飯沢耕太郎によるテキスト(「アラーキーは殺されるべきか?」)は、懇切なものだった。

そこで飯沢が述べているのは、荒木の「私写真」や「女性ヌード」が、写真を取り巻く時代の状況の変化により、通用しなくなってしまったということである。

私も飯沢の見解に同意し、重なる部分は大きい。しかし、私なりに言えることがあるのではないかと思い、論を進める。

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