野間清治の肖像(講談社)
メディア・マスコミ

20世紀のメディアの主役となる岩波茂雄と正力松太郎「青春の日々」

【新連載】大衆は神である②

明治維新から30年余、大衆の中に国民の権利の意識が芽生え、大正デモクラシー運動への萌芽がみられるようになった明治末期、官立のエリート養成学校である東京帝国大学に2人の青年が通っていた。

ひとりは、日本の文壇史を飾る大作家たちを発掘、育成する名編集者となり、かたや、内務官僚から新聞界に転じ、経営する新聞を世界一の発行部数を誇る大新聞に成長させる大立て者となる。若き日、帝国大学が立つ本郷の地で、彼らはどんな青春を送っていたのか――。魚住昭が日本のメディアのあけぼのを描く連載・第二回(前回はこちら

「千人にひとりか、百年にひとりの名編集者」

夏目の「猫」の連載がはじまったころ、雑誌『中央公論』の本社は、本郷通りをはさんで東京帝大の向かい側に位置する駒込西片町(こまごめにしかたまち)にあった。本社といっても社長の麻田駒之助(あさだこまのすけ)の私宅を兼ねた、質素な木造の建物で、『中央公論』の印刷部数も約1500部にすぎなかった。

『中央公論』はもともと「禁酒」と「道徳」を標語とする西本願寺系の修養雑誌だった。それを、創作文芸・社会評論を中心にすえ、日本を代表する総合雑誌に育て上げたのが、のちに「千人にひとりか、百年にひとりの名編集者」とうたわれる滝田哲太郎(たきたてつたろう、=樗陰〈ちょいん〉)である。

中央公論社の社史『中央公論社の八十年』(杉森久英〈すぎもりひさひで〉著)には、滝田は「五尺(=約152センチ)に満たぬ短軀の持ち主だったけれど、体重は十八貫(=約68キロ)もあり、下腹は相撲取りのように丸く出張っていた。それに頰の真赤な、子供っぽい顔をしているので、夏目漱石などは金太郎とよんだ」と描かれている。

 

岩波茂雄より一年遅く秋田で生まれた滝田は明治36年(1903)9月、仙台の第二高等学校を卒業して東京帝大文科大学の英文学科に入った。それからまもなく、学費稼ぎのため、海外の新聞・雑誌の記事を翻訳するアルバイトとして中央公論社に入った。ちょうど岩波が一高で一度目の落第をし、安倍と親しくなったころである。

翌明治37年(1904)9月、滝田は英文学科から法科大学の政治学科に転じ、翌月、中央公論社に正式入社した。帝大に籍を置きながら『中央公論』で働く。学生と編集者の二重生活である。

滝田樗陰。ずんぐりむっくりで丸い赤ら顔だったといわれる

このどっちつかずの時代、滝田の悩みは深かったらしい。なぜなら『中央公論』に深入りすればするほど、学業はおろそかになる。法科の勉強は編集の片手間にやれるほど生やさしくはない。このままでは彼の卒業を楽しみにしている父親の期待を裏切ることになる。

父親は郷里の仙北(せんぼく)郡荒川村の村長をつとめていたが、滝田の二高入学とともに退職して、一家をあげて仙台に移り、鉱山監督局に奉職した。滝田が帝大に入ると、今度は鉱山監督局をやめて東京へ移り、麹町区(こうじまちく)飯田町(いいだまち)にある秋田県育英会の舎監となって滝田といっしょに住み込んだ。それほど滝田の将来にたいする父親の期待は大きかったのである。

滝田は酔うと必ず父親のことを口にし、酒乱のように暴れまわった。「おやじにすまない」といって泣いた。父親の期待にそむき、学歴エリートの道をはずれることに強い罪悪感を覚えていたのだろう。滝田が帝大を中退して二重生活に終止符を打つのは、それから5年後のことだ。

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