〔PHOTO〕gettyimages
エンタメ

スピルバーグはなぜ「SF超大作」と「社会派映画」を往還するのか

自らが作った世界から「逃避」したい

スピルバーグの振り幅

スティーヴン・スピルバーグの新作が2作、同時期に封切られた。

1970年代の新聞社を舞台にした『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』と、2045年の近未来を舞台にした『レディ・プレイヤー1』。

「報道の権利」をテーマにした社会派ドラマと、VRゲームを物語の中心に据えたSFアクションという、まったく異なるジャンルの作品だ。

舞台になるのも、一方は1971年、一方は2045年。

かたや「普通の映画」、かたやCG、3Dどころか、VRを取り込んだ、「驚異の新映像世界」。

スピルバーグはこれまでも、1993年に『ジュラシック・パーク』と『シンドラーのリスト』、2005年に『宇宙戦争』と『ミュンヘン』と、SFアクションと現代史ものとを同じ年に作ってきた例がある。

そのキャリア全体を眺めれば、大雑把に言えば、SF・ファンタジー系と社会派歴史劇――「アンリアル系」と「リアル系」とも言える――を交互に作っていることが分かる。

リアルとアンリアルの並立、2つの世界の往還こそが「スピルバーグらしさ」なのだ。

このように、ひとりで2つの顔をもつことは、「娯楽大作は金儲けのためで、本当に作りたいのは社会派だ」とか、「本当に作りたいのは娯楽大作だけど、それだと賞が貰えないので、名誉欲を満たすために良心的社会派作品も作っている」などともっともらしく解説されるが、どちらも違うだろう。

おそらくは、リアルとアンリアルを往還するのは、何らかの均衡を保つためだ。

 

今年の2作の制作過程を調べれば、『レディ・プレイヤー1』の撮影が終わった後、ポストプロダクションの作業を中断して、急遽、『ペンタゴン・ペーパーズ』の撮影に取り掛かったという。

今回の往還は、数年という時間を置いてではなく瞬時になされている。

2作が間隔を置かずに作られたのは、スピルバーグに危機が訪れ、緊急に均衡を保つ必要があったからに他ならない。

スピルバーグは「スピルバーグ映画」から逃避したくなったのだ。

メガホンを握ったのは自己否定のため?

『レディ・プレイヤー1』は「スピルバーグ映画」なしでは成り立たない世界観で書かれた、アーネスト・クラインの小説『READY PLAYER ONE』(邦訳『ゲーム・ウォーズ』、SB文庫)を原作としている。

映画『レディ・プレイヤー1』の宣伝では、80年代ポップカルチャーのキャラクターがたくさん出てくることが、セールスポイントになっている。

たとえスピルバーグ作品からの引用ではなくても、これらのポップカルチャーの大半がスピルバーグ映画の直接・間接の影響下にある。

原作小説そのものが、スピルバーグ映画を前提としているのだ。

映画にも、ガンダム、メカゴジラなど日本のキャラクターも登場するし、ハリウッドの古典的キャラクターであるキングコングや、スピルバーグの『ジュラシック・パーク』の恐竜も出てくれば、よくは知らないが、コンピュータ・ゲーム、テレビドラマなどのキャラクターもあり、ポップカルチャーの祭典のような賑やかさだ。

しかし、これらのキャラクターたちは劇中劇とも言うべきVRゲームに数秒から数十秒登場するだけで、物語を彩ってはいるが本筋ではない。

本筋(ストーリー)ではないが、ポップカルチャーはこの映画の本質ではある。どのキャラクターがどこに出てきたと語り合うのが、この映画の楽しみ方のひとつでもある。