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「小田急線複々線化」37年に及ぶ大工事完了で乗降客数は増えたか

時間帯や駅によってはかえって不便に?

混雑率191%の熾烈な朝ラッシュを解消すべく

小田急電鉄では、昭和47年以来工事が進められていた小田原線代々木上原〜和泉多摩川間の複々線化プロジェクトが完成した。足かけ37年の大工事であった。

3月3日の始発より梅ヶ丘の東側から東北沢まで、新たに浅いトンネルの緩行線の使用を開始。従来の深いトンネルは急行線として引き続き使われる。

なお、複々線区間の西側につながる和泉多摩川〜向ヶ丘遊園間は、上り線だけ2線となっている。

 

これにより、代々木上原〜向ヶ丘遊園間の上り線は、完全に2線となり、朝のラッシュ時に効果を発揮することになった。

計画区間のすべての複々線化が完成したのにともない、3月17日に小田急電鉄はダイヤを改正した。

小田急は、朝ラッシュ時1時間平均で混雑率が191%と熾烈な状況で、とくにこの時間帯の急行は旅客が集中して、定員の2倍を大きく超える混雑ぶり。もはや身体的に異常をきたしかねない深刻な状況であった。

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戦前、小田急線沿線は、計画的に開発された成城学園前周辺を除いて、都市化していたのは、世田谷あたりまでであった。その西側は田園地帯が続き、さらに軍事都市として発展した町田に至った。

もともと、小田急線は、東京の近郊地域の通勤輸送と箱根や江ノ島への行楽客の輸送を目的にして建設された。新宿〜小田原・江ノ島間の急行と新宿〜稲田登戸間の各駅停車が設定されていた。

昭和初期の小田急の時刻表(右に新宿~稲田登戸間の時刻表あり)
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戦後、高度経済成長期において、首都圏では、人口爆発の様相を呈し、住宅難が深刻になっていた。国鉄沿線はすでに都市化は飽和状態で、人口集中の受け皿は私鉄沿線が中心となった。小田急線沿線でも、町田を超えて神奈川県まで宅地化が進み、各地に大規模な公団住宅が建設された。

小田急は、沿線の急速な都市化に直面し、増発と編成両数の増強に努めたが、線路が2本では、それも限界があった。そこで、昭和39年、東京オリンピックの開催による公共事業の工事ラッシュの中で、都心から代々木上原までの地下鉄の新線(千代田線)と、それにつながる小田急線の複々線化が構想され、都市計画決定をみた。しかし、地下鉄千代田線は昭和53年に開業したものの、複々線化の工事着手は大きく遅れることになる。

当時、各地で公共事業が立ち上げられ、多くの鉄道工事が行われた。しかし、鉄道は、巨額の工事費が必要であり、またひとつながりの細長い土地が必要であるので用地を取得するのも難しかった。一部には沿線の反対で工事に着手できないケースもあった。

複々線化事業が具体化しないまま、その後も旅客の増加は続き、混雑は酷さを増した。線路2本に限界までの本数を詰め込んだため、ノロノロ運転となり、そのうえ遅延が慢性化し、利用者からの不満の声が高まった。