Galería Surrealista de Art of this Century 1942(photo: DEAC MUSAC)
美術・建築 ライフ

美術作品から「作者」と「額縁」を取り除いたあとに残るもの

「宝探し」をめぐる考察 第3回
米コロンビア大学を卒業後、ゴールドマン・サックス証券、国外ヘッジファンドを経て、現在、株式会社CTBの代表を務める筆者が、社会のアクティビティにひそむ「宝探し的虚構」を解き明かす連続シリーズ。第3回目は、美術鑑賞につきまとう遊戯の構造を検証する――。

⇒第1回【社会にはびこる「遊戯の構造」を検証すべき時がきた
⇒第2回【金融業界人の正気を保つ「利益確定」なるマジックワード

距離と時間の軸を持たない「平面」

揺るぎない根源的な価値とか、疑いのない本質的な意味とか、そういう確かな手触りのものが確認できなければ、とても不安で仕方がない。だが辺りにそんなものは見当たらないから、代わりに、根源的な価値や本質的な意味が埋蔵された、どこか遠くの場所を想像して、そこを目指して冒険に出る。

かくして演じられる「宝探し」という古典的な物語について、2回にわたって検証してきた。デパートの催事会場で、あるいは経済活動に資本を供給する金融市場で、宝探しの遊戯は繰り返し催されている。

 

隠蔽されていた価値が顕在化し、伏せられていた意味が明らかになる――すなわち、宝物が発掘される――時間と場所。それは決まって、今ここではなく、いつか未来の、どこか遠いところに設定される。

そこを目指して動き出す宝探しの物語は、したがって、距離と時間が、それぞれ推移することを前提に構築される。今という時間と、ここという場所に留まるのを嫌う遊戯は、早く冒険に出発しようと参加者を急き立てるだろう。

だが、こうした直線的な運動は、一つの形状によって、決まって行く手を阻まれる。いざ冒険に出ようとする者の目と鼻の先に現れ、距離と時間の推移をあらかじめ無効化してしまう形状。すなわち、宝探しが思い描く直線を断絶し、今という時間と、ここという場所を参加者に強要する「平面」が、運動をつねに苛立たせるのだ。

平面、それは例えば、油絵が描かれた一枚のキャンバスでもよかろう。

亜麻の繊維で作られた平面は、観る者が突き進むべき奥行きを初めから否定しているし、乾性油の酸化により定着した顔料は、時が経過しても形を変えることはない。絵画を鑑賞する時、誰しもが覚えるあの居心地の悪さは、距離と時間の軸を持たない平面性を、直視しなければならない者の心細さなのだ。

美術鑑賞につきまとう「呪縛」

こうした平面の不安に耐えかねて、我々は絵画を観ると、決まってその「意味」を探ろうとする。キャンバスの表層には明示されない別の深い意味が、作品の裏、あるいは作品の奥に、隠されているに違いない。託されたメッセージ、象徴される思想、もしくは暗示される社会批判。そういった、もっともらしい意味の発掘が目標として掲げられては、宝探しの冒険が試みられている。

この時、宝物の存在を正当化するために召喚されるのが「作者」である。作品の裏、または奥からやがて発掘されるメッセージ、思想、そして批判は、宝探しの冒険が始まる遥か以前に、作者という特権的な存在によって埋蔵されたものでなければならない。

だから、例えばマルセル・デュシャンが、どこにでもある工業製品に、なにやら作者らしき名を署名すれば遊戯が成立してしまうように、宝探しにおいては、作品そのものより、むしろ意味の源泉として神話化される作者こそが不可欠なのだ。

まるで平面から逃げるように、いつか未来の、どこか遠いところを目指す宝探しとして制度化される美術鑑賞。それは、隠された正解を得意げに解読する専門家や識者らが、特権的な地位に祭り上げられた作者との同盟関係を盛んに主張しながら、なにやら思わせぶりな目配せを交わし合う、会員制クラブの趣を纏う。

言うまでもなく、会員制クラブの戦略は、宝物への接近を禁じられた非会員の不能感を刺激して、宝物の価値を吊り上げることに尽きている。そのため、作品の意味に対して無知でいることは、非会員の恥ずべき欠陥として蔑視されるだろう。

無論、作者と呼称される人物は、作品に特定の意味を託したかもしれないし、それを解明する研究には、一定以上の興味さえ刺激される。だが、神話的な作者を召喚し、解読されるべき正解として特定の意味を据え置いた途端、美術鑑賞は、会員制クラブへの入会を禁じられた非会員たちが、恥ずべき欠陥を克服し、健康体を取り戻すために行う貧しい運動へと還元されてしまうのだ。

そうではなく、誰しもの目に明らかな形状で、今ここに存在している平面を肯定し、亜麻の繊維と、酸化した乾性油に絡んだ顔料そのものを直視することはできないか。欠陥を埋め合わせる焦燥感に駆られて宝探しの冒険に出るのではなく、初めから欠陥など抱えていない健康体として平面性を見据え、キャンバスの表層に留まったまま、過剰な生と戯れることは許されないだろうか。

そう呟く声が、どこからか聞こえてくる。

根源的な価値やら本質的な意味やら、そういう如何わしいものの呪縛から、私が美術鑑賞を解放してみせましょうと、声は言う。建築家、フレデリック・キースラー(1890年~1965年)の口から漏れるその声に、いま耳を傾ける時が来ている。